次の時代をどう生きるか
ただ生きるのかそれとも…
目 次
序章 働くって?
第一章 何の為に?
第二章 何を元に?
第三章 ではどう生きる?
はじめに
2017年に出版された「漫画 君たちはどう生きるか」が、2018年には累計200万部以上を売り上げてヒットしましたが、それは、先行き不透明な現代社会において、人々が不安を抱いている証左ではないでしょうか。社会の混迷が深まってくると、哲学が求められるようになると言われていますが、どう生きたらいいのか、その答えを求めて哲学の門をたたく人が増えているということは、これまでの価値観が行き詰りを見せている昨今の世相を反映しているともいえます。
江戸時代なら、個人は、生まれた家や村や藩といった所属する集団の中で役割が決まっていましたし、明治以降は近代国家建設という国家の目標が、個人の目標にもなっていました。戦後は、高度経済成長の中で「これが幸福な人生というやつですよ」という社会が提供するステレオタイプの価値観というものがあって、個人はごちゃごちゃ考えなくてもその流れに乗っかるだけでよかった。しかし、バブル崩壊以降は多様な価値観の時代に入り、多くの選択肢の中から、個々人が自分の責任で、自分の生き方を模索し、自分の人生の流れを自分で作らなければならなくなりました。しかし、いきなり「さあ自分で考えろ」と言われても、誰もがそれをうまく出来る訳ではありません。
野生の鳥は、自由にあちこち飛び回ることが出来ます。その代り、餌が取れなければ野垂れ死にするしかありません。鳥かごの鳥は、餌の心配がありません。その代り、自由にあちこち飛び回ることは出来ません。これは、人間社会も当てはまります。サラリーマンの足には鎖がついていますが、収入は確保できています。フリーランスの自由度は高いですが、収入の保証はありません。選ぶものによって、ライフスタイルが大きく変わることになります。
2015年12月に野村総研は、10~20年後に国内労働人口の49%に当たる職業について、技術的には機械や人工知能に代替可能だという衝撃的な分析結果を発表しました。もちろん、それがそのまま失業に繋がる訳ではないし、それに代わる新たな職業が出現してそちらに労働人口が流れていくことも考えられます。それでも、これまで人間がやっていた、若しくは人間にしか出来なかった仕事が、人工知能や機械に置き換えられ、少なからずの人間が機械に職場を追われるという近未来が、すぐそこまで来ていることに変わりはありません。
労働者の「労働力」という商品は、会社に買ってもらって初めてその価値を発揮しその対価として賃金を受け取ることになります。その会社が労働者を雇うのは、その労働力に価値を見出したからです。それが人間にしか出来ないことなら、労働力の価値は上がり、機械でも出来ることなら労働力の価値は相対的に下がります。ただ、人間にしか出来ないことでも、誰でも出来ることならその労働力の価値はあまり評価されません。誰でも出来ない、若しくはその人にしか出来ない付加価値のある労働力を提供できるなら、その価値は上がります。つまり、労働力を提供する以外に商品を持っていないなら、その付加価値を上げないと労働市場では使い捨てにされてしまうということです。
どう生きるかは人によって様々ですが、突き詰めると次の二択に行き着くように思います。即ち、自分の自然な考えで生きていくのか、それとも、バックボーンとなる思想・哲学・宗教等を保持してそれに基づいて生きていくのか。世界のスタンダードは概ね後者ですが、日本においては前者の方がスタンダードになっています。人は、持って生まれたものや育った環境の中で影響を受けたもので構成された無意識の領域の価値観に多大な影響を受けており、自分の意志で決めたように思っていても、実際はその前に無意識の領域で決められていたという事も少なくないと言われています。自分の自然な考えで生きていくという事は、ある程度この無意識の領域の価値観に委ねる事を意味していて、意識してバックボーンを持つという事は、ある程度それに抗って自分の意志を優先させる事を意味します。果たして、自分の思うに任せたら自分の本来あるべき姿に辿り着けるのだろうか。それとも、自ら選択した思想哲学等に委ねた方が最適解に至る事が出来るのだろうか。確かに、宇宙とか自然には、本来あるべき姿に収束していく自動システムのようなものが働いているので、人に置き換えても自然の流れに任せるというのは有りかもしれませんが、本能や慣習の影響が強くなり、特に集団主義の社会では善悪両面で一つの方向に流されやすい傾向があるので最善とはいえません。かといって、バックボーンを持って理性の差配に任せるのも、その価値規範が必ずしも正しいとは限らないので危険が伴いますし、理想だけあっても本能由来の原動力が無ければ推進力を得る事は出来ません。どちらにも一長一短があり、性急に一方に偏るのはリスクが伴いますので、まずは、自分は何者で何処に向かって生きていこうとしているのか、即ち「軸となる判断基準」を把握選択して、それを踏まえながら人生の歩みを進めていくのがいいように思います。後は、経験値を上げつつ随時自分に合ったもの、自分が良いと思ったものを取り入れていけばいい訳です。
さて、来たるAI時代を生き残っていくにはどうしたら良いのでしょうか。量産型の金太郎飴ではどうにもならないことだけは分かります。インプットしたものをそのままアウトプットするだけならAIの方が得意なので、何時でも替えがきく存在になってしまうことにもなりかねません。それが嫌なら、様々な情報や知識をインプットして、自分というフィルターを通してそこに付加価値を加味してアウトプットするしかありません。そうなると、如何に自分の持っているフィルターを磨いて、高付加価値のものを加味していけるかがポイントになります。それは、自分の意見を持った個性ともいえます。これからの個が輝く時代、若しくは個と個が繋がる時代においては、これまで以上に個人の「価値」が問われるようになります。人は誰しも、その人にしかない固有の価値を持っています。磨けば光る原石と言ってもいい。しかし、自分の持っている社会的な価値に気付かず、それを高める努力をしなかったら、原石のままで終わってしまう事になるかもしれません。生きるという事は、即ち、その「自分の持っている、若しくは持とうとしている価値」を最大限に高めていく事に他なりません。
ヴィクトール・フランクルは著書「夜と霧」で、「わたしたちが生きることからなにを期待するかではなく、むしろひたすら、生きることがわたしたちからなにを期待しているかが問題なのだ」といい、「生きることは日々、そして時々刻々、問いかけてくる。わたしたちはその間いに答えを迫られている。考えこんだり言辞を弄することによってではなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。生きるとはつまり、生きることの問いに正しく答える義務、生きることが各人に課す課題を果たす義務、時々刻々の要請を充たす義務を引き受けることにほかならない。」といっています。つまり、例えば収入が減って生活が困窮してきたというのは、人生から「お金がないぞ。さあどうする。」と迫られている訳で、それに対して例えばバイトの面接に行って新たな収入源を確保するといった行動によって応えていく。そうしているうちに、人生が自分に期待していること、やるべき使命・役割・義務といったものが分かってきてその期待に応えていくことが正しい人生の歩み方だと言っている訳です。
問題は、その人生からの問いに対して応えられない人々です。お金が無いと分かっていても働けない人は少なくありません。それが心身の疾病からくるのであれば仕方ありませんが、そうではなく何となく気分が乗らないというものならその要因は流れの喪失に求められるかもしれません。それに関連してフランクルは同書で「このひとりひとりの人間にそなわっているかけがえのなさは、意識されたとたん、人間が生きるということ、生きつづけるということにたいして担っている責任の重さを、そっくりと、まざまざと気づかせる。自分を待っている仕事や愛する人間にたいする責任を自覚した人間は、生きることから降りられない。まさに、自分が「なぜ」存在するかを知っているので、ほとんどあらゆる「どのように」にも耐えられるのだ。」といっています。つまり、未来に自分を待ってくれている存在の自覚が流れを作り、そこに向かって生きていくことがモチベーションの源泉になりうることを示唆している訳です。
中島敦の名言で「人生は何事もなさぬにはあまりにも長いが、 何事かをなすにはあまりにも短い。」とあります。自分の成すべきことを自覚して「未来に自分を待ってくれている存在」に向かって前進している人にとっては、時間がいくらあっても足りませんが、無為に過ごしている人にとっての時間は、淡々と流れて何となく過ぎていきがちです。ただここで言いたいのは、「事を成せ」でも「無為に過ごすな」でもなく、「どう生きるかを早めに自分で選択しておいたほうがいいよ」ということです。人生を終える段階になって「これじゃなかった!」と後悔してもどうすることも出来ないからです。なので、どう生きるかの選択をここでしておきませんかというのが「モチベーションの木」であり、その説明書的な位置づけになるのが本冊子ということになります。
※あくまで、個人的な意見を書いておりますので予めご了承ください。
序章 働くって?
日本の雇用環境
これまでは、それなりの大学を出て、それなりの企業に就職して、定年まで働いて悠々自適の年金生活を送るというレールが存在し、それが一億総中流を形成してきました。その時代では、一般の大多数の人がそのようなベーシックな幸福を目指し概ねそれを実現できましたし、一部の才能や能力の優れた人は、自分のやりたいことをやって夢を実現しました。つまり、それぞれが望む幸福を概ね実現できた時代だったといえます。時代は移り変わり、価値観は多様化し、年功序列終身雇用の崩壊、非正規雇用の増加等で、これまでのように平凡な幸福を望んでも簡単には手に入らなくなりました。つまり、自分は頭も良くないし才能もないので平凡でも人並みの暮らしが出来たらそれで十分と思っても、その平凡な暮らしを確保することすら難しくなっています。中間層が減少し富裕層と貧困層、勝ち組と負け組みの二極化が進んでいます。つまり、正社員と非正規労働者の間に横たわる身分階級の溝が露骨に現れてきました。そうした中で、人件費の安い新興国に工場労働者の仕事を奪われるようになりました。アジアの新興国と日本とでは給料水準がかなり違うので、大量生産且つ単純作業の仕事は海外流出が避けられず、必然的に日本での仕事は高い技術力を生かした高品質で高付加価値のものになってきています。
そうした中、倒産やリストラによる中高年の離職が頻繁に起こるようになってきました。これまで守られてきたサラリーマンが「気楽な稼業」ではいられなくなったといえます。アメリカのように転職が当たり前で再就職するのが比較的容易な社会ならいいのですが、日本の場合は、中高年が一旦離職すると再就職は非常に困難になります。つまりそれは、転職市場におけるニーズが少ないことを意味しています。基本的に企業が雇いたいのは能力のある若い人で、例外は、企業が欲しがるスキルを持った人材だけです。その結果、多くが非正規雇用の方に行かざるを得なくなりました。ここで問題が生じました。そもそも、アルバイトに代表される非正規の分野は、学生、主婦、高齢者といった補助的な収入を求める人向けの就労形態で、それだけで生活していけるような形になっていませんでした。そこに、それで生活しなくてはならない人が入ってくるようになり、それがワーキングプアなる階層を生むきっかけになりました。社会構造が変わったことにより、いつまでも終身雇用時代のやりかたでは立ち行かなくなったといえます。
職業の選択
動物はそれぞれ生きていく為の武器を持っていますが、全てを備えているものはいません。例えば、肉食獣なら鋭い牙や爪、草食動物なら早い足や硬い装甲などでそれぞれの得意分野を生かして生き延びています。人間は自由に使える手と突出した頭脳によって道具をつくり、集団を形成することによって生き延びてきました。つまり、全てを備えたオールマイティは存在せず、それぞれの特色を生かして生きていくしかないということになります。人間社会においても、それぞれの得意分野を生かした仕事をして生活しているわけです。
さて、一つの会社で人生を全うできるなら、転勤しながら出世していくゼネラリスト的な働き方も有力な選択肢になりますが、これはリスクが高い。もし、40過ぎて肩たたきにあったら転職先に困ることになるからです。では、スペシャリスト的な働き方がいいのかといえば、これにもリスクがあります。人工知能の出現によって、機械でできる範囲が大幅に拡大し、現在それが職業として成り立っていても10年先もそうとは限らないからです。手に職といってもその選択を間違えると、中高年になってから路頭に迷うことになりかねません。つまり、好きとか興味があるといったこと以上に、その業種の未来を考慮に入れておく必要があるということです。どんなに好きなことでも、それが職業として成立していないと、それで飯を食っていくことは困難です。ただ、それを踏まえつつも、自立した個人のスペシャリスト的な働き方というのは時代の要請なのかもしれません。替えのきく人間は、何かあったら真っ先に切られます。替えのきかない人間は、切りたくても切れません。ゆえに、自分にしか出来ないかけがえのない人間になれば、社会の動向に右往左往する必要はありません。音楽プロデューサーのつんく♂も、近畿大学平成27年入学式の祝辞で「皆さんもあなただから出来る事。あなたにしか出来ない事。それを追究すれば、学歴でもない、成績でもない、あなたの代わりは無理なんだという人生が待っていると思います」と述べています。
こういう先行きが見えない不安定な時代なので、とにかく大企業や公務員といった、より安定性の高い選択に走りがちではありますが、逆に不安定な時代であるがゆえに、むしろ手に職を付けて社会の変化があっても腕一本で食っていけるだけのスキルを身に付けるといったリスクマネジメント志向に走る動きもあります。どうしても、人は「これは自分の一生の仕事だ」と思えるものを求めてしまいます。ゆえに、いまやっている仕事がそう思えなかったら苦痛を感じることになります。それは「これを一生やっていくのか」とか「自分はこんなことをやる為に生まれてきたんじゃない」と考えてしまうからです。
人は直感と理性を使ってものごとの判断をしています。直感というのは単なる思い付きではなく、これまでの経験の蓄積を自分なりに消化して導き出されるものなので、直感でいい結論を得ようとすれば、裏打ちとなる豊富な経験が必要になります。理性というのは正確な情報を元に合理的且つ論理的に結論を導き出しますが、理性的にいい判断をするには豊富な知識と経験が求められます。つまり、多くの選択肢の中から最善の選択をしようと思えば、豊富な経験が不可欠となります。ゆえに、まだ社会にも出ていない高校や大学の段階で正解の選択をするのは至難の技と言えます。最初の選択で正解を導くのが難しいとなると、転職というのも、ある意味必然のアイテムといえるかもしれません。
偶然か意志を持った選択によって、自分と自分以外のものが縁を結ぶことになり、そこに何らかの意味が発生します。今住んでいる場所は、偶然か意志を持った選択によってそこに住んでいるわけですが、この場所とまったく関係ない遠くの場所とでは、同じようには考えられないわけです。例えば、プロ野球ならついつい地元のチームを応援してしまうし、オリンピックなら特別な事情が無い限り自国を応援します。つまり、場所とか関係とかの縁を結ぶことによってある種の意味が発生し、その他のものと区別して考えているのです。職業についても同じことが言えます。自分にとって縁のある職業、つまり、意味を付帯された職業というものがあります。親が芸能人というのも縁だし、災害に遭遇してそこで出会った消防隊員というのも縁です。そうしたものに触れることによって、それらの職業には他の職業と明らかに違う意味付けがなされているわけです。それは、その場所その時間その内容という軸で考えると、その人個人限定の意味が付帯されるわけで、自分の好き嫌いとは別のところで職業の選択に大きな影響を及ぼしています。よく政治家の2世議員が世襲だと言われて批判されますが、生まれた時から政治家の家で育った場合、政治家という職業は他の職業とは明らかに違う意味付けがなされているので、それを選択したとしてもある意味やむを得ない部分もあります。つまり、何かを選択する場合、自分の意志で選択していると思っていても、こうした無数の縁が強く影響しているということです。
「労働」というのは、ただ収入を得る為の手段として体を動かすことであって、その結果に特段の意味を求めません。「仕事」というのは、それをする目的や意味を問うものであって、その結果としてやりがいや達成感を求めます。ただ、人によって満足できる境界が違っているので、自分のタイプを把握しておくことは重要です。というのも、「仕事」でないと満足出来ない人が「労働」に就いていた場合、どこまでいっても満足の人生にはならないからです。
職業の意味については、自分が感じる主観的意味と社会にとっての客観的意味に分けることができます。職業というのは、それ自体社会的な存在意義があるから成立しているので、基本的に無意味な職業というのは存在しませんが、社会の幸福に対する貢献度によって、その重要度は異なります。例えば、社会問題になっていることを解決する取り組みをした場合、その貢献度は高いということになります。自分が感じる主観的意味というのは、その職業がどんなに社会的貢献度の高いものであっても、自分がそれに意味を見出せなければ自分にとっては無意味ということになり、逆に、それがどんなに社会的地位の低い職業であっても、自分がそれに意味を見出すことが出来れば、自分にとっては意味のある職業になるということです。人生の目的は幸福という哲学的結論からすると、意味の有る無しの基準は自分の幸福に関係があるかないかということになります。つまり、これは自分の幸福にとって欠かせないとなれば意味があることになり、自分の幸福に無関係となれば意味がないということになります。
第一章 何の為に?
生きる意味とは
…もし、全てが無意味で死と共に全てが終わるとしたら、この世で行う全ての行為は、単なる自己満足の暇つぶしということ?
ーー自分は何の為に生きているのかーー
遺伝子レベルでは遺伝子を残す為という説もありますが、もしそうなら、子供が成人した人や子供を作らない若しくは作れない人は、無意味な人生を生きていることになるのだろうか?子孫を残すことだけの為に人は生きているのだろうか?そうは思えないので、ちょっと考えてみたい。
レベル1 心臓を動かし、呼吸をする為
…それで満足なら、植物状態で生きているだけでもいいとなるが…。
レベル2 心臓を動かし、呼吸をし、意識を持つ為
…それで満足なら、全身マヒでベッドに寝ているだけでもいいとなるが…。
レベル3 心臓を動かし、呼吸をし、意識を持って、体を動かす為
…それで満足なら、牢獄にいてもいいとなるが…。
レベル4 心臓を動かし、呼吸をし、意識を持って、体を動かして、人並の生活をする為
…それで満足なら、「労働」でいいことになる。
レベル5 心臓を動かし、呼吸をし、意識を持って、体を動かして、人並の生活をしながら、自分のやりたいことをやって楽しむ為
…それで満足なら、「仕事」でいいことになる。
レベル6 心臓を動かし、呼吸をし、意識を持って、体を動かして、人並の生活をしながら、自分のやりたいことをやって楽しみ、世の中の役に立つ為
…つまり、「活動」まできてやっと満足ということになる。
※ハンナ・アーレント著 人間の条件「労働」「仕事」「活動」参照
もし、地球上で自分一人だけになったら、自分の行為の大部分がその意味を失うことになります。ボランティア活動も、医療活動も、政治活動も、つまり、「活動」そのものが無意味になるし、アートも、執筆も、つまり、「仕事」も無意味になります。残るのは、生きていく為に必要な、着るものの調達、食べるものの調達、住むところの確保、つまり、「労働」と、何らかの楽しみを求める「自己満足」だけになってしまいます。そう考えると、生きていく中での意味というのは、社会があってこそ発生するものということができます。言い換えると、社会との関係の中で意味が発生するということです。意味のある人生を送りたい、生きている意味が欲しいと思うなら、社会との関わりを避けて通ることは出来ません。逆にいえば、ただ楽しく生きていければいいのなら、自分と家族や友人のことだけ考えていればいいことになります。
今の現生人類であるホモ・サピエンスが出現してから20万年も経っています。その内19万年ぐらいは食べて寝て種を残すといった他の動物とさほど変わらない生活を営々と続けてきたわけですから、今になって人類が生物界の頂点として威張ってみたところでその根本の部分はさほど変わらないのではないかと思います。つまり、真の意味するところは動物も人間もさほど変わらないのだとしたら、生きる意味を問うても問わなくてもそれが分かろうが分かるまいが結局、帰するところは同じということになります。だから、動物はそんなことを考えなくても、食べて、寝て、種を残すことで満足した一生を過ごせるのかもしれません。しかし、人間はそれだけでは満足出来ない欲張りな存在です。そうなると、生物としての存在の意味というよりも、その本人が個人的に自分の人生に満足できるかどうかの自己満足の世界ということになります。それなら簡単で、生きる意味は一切問わないで、自分がやりたいと思うことを納得できるまでやればいいだけの話です。それによって幸福を感じることが出来ればその人の人生はOKなわけです。
しかし、人間というのは、自己満足だけでは真の幸福を感じることが出来なくて、他の人々の役に立って、その人々から喜んでもらって、初めて自分の存在意義を確認できるというやっかいものです。となると、人の為に何ができるかを考えて実践することが、結局のところ満足のいく人生を歩む近道になるということでしょうか。
生きていること自体に何らかの根源的な意味はあると思われますが、それは人間の理解を超えた次元のことなので、その意味をことさら問うよりも、その生を使って何をするのかの方がより重要な命題になります。命=時間で、平均寿命まで生きるとして約80年の時間を持って生まれてくる訳です。その間に何をするかが問題になります。80年というのは長いようで短い。うっかりしているとあっという間にその時を迎えることになります。思いっきり楽しむ80年も一つの人生だし、思いっきり社会の為に貢献する80年も一つの人生。結局はその人がそれで満足できるかにかかっています。自分のたった一つのかけがえのない人生を何に使うのか。ただ言えるのは、暇つぶしとかで時間を浪費するのはもったいないということ。その間にも与えられた時間は確実に減っていっているのですから。人間というのは、明日死ぬとなったらどうでもいいことを、普段から延々とやっています。自分にとって重要なことをやらないで、どうでもいいことに貴重な時間を費やしています。それは、「自分がいつか死ぬ」という逃れられない事実をまったく考えていないから出来る芸当です。自分のやるべきことに対して、自分に与えられた時間はそんなに余裕が無いことが分かれば、つまらないことに血道を上げるなんて事は出来るはずがありません。
生と死を考える
「死」とはどういうことか。私なりに考えてみると、自分が今持っている「こうしたい」「ああしたい」という思い、言い換えると欲と理想を、自分の実際の言動で実現できなくなってしまうということ。仮に魂のようなものがあったとして、空の上で下界を見守るようなことが出来たとしても、生身の体がなくなってしまえば実際に行動して思いを実現させることは出来なくなります。ということは、「生」とは、自分の思いを実現させようとしていて、実際にその行動が可能な状態といえます。しかし、その生は永遠ではなくいつかは終わる。ゆえに、生きている内に「やりたいこと」「やるべきこと」をやらなかったら、その時を迎えようとした時に必ず後悔することになります。身体が滅んでしまったら、もうどうすることも出来ないのだから。では、その「目指すもの」が無かったら、若しくは分からなかったら、その生はどういうことになるのか。ただ、漫然と日常生活を送るだけということになるのか。そうだとすると、その終局は、その日常生活が終わるだけということになるのか。その中にささやかな楽しみがあったとしても、星になってしまえばその喪失感を感じることも無いので、それを失うことは、大したことではないのか。そうなると、死というものが生との裏表で俄然身近なものになったりはしないか。それは、本能的に生きてはいるが、別に積極的に生きていこうとしている訳ではなく、惰性で生きていて、お迎えが来たら従容として受け入れる準備が出来ている状態なのか。
確かに、その時を迎えたら楽も苦も無くなります。現在、苦の方が多くて楽が少ない状況で、これから先も変わりそうにないなら、星になった方が楽と考えるのは一見、合理的なようにも思えます。しかし、本当にそうだろうか。絶対に逆転がないとは言い切れないし、そもそも、人生なんて苦の方が多いものです。そんなことでいちいち星になっていたら、世の中に人がいなくなってしまいます。苦労できるのも生きていればこそ。労苦すら楽しんでしまえば、怖いものは無くなります。一般的に、目指すものがあれば、その道中の苦は苦にならないというか、むしろ、生きている充実感をもたらすものとして捉えることができます。例えば、ボクサーがチャンピオンを目指して、辛い減量や練習に耐えてもやり続けるのは、そこに生きている充実感を感じるからではないだろうか。でなければ、命懸けでリングに上がるなんてことは、そうそう出来ることではない。挑戦に苦労は付き物で、むしろそれは、やりがいにもなります。人生の旅は、いつまでも続けることはできず、いつか終わる時がくる。これは、誰も免れることはできない。ならば、そのギリギリまで何か目指すものに向かって前進していて、その前傾姿勢のまま逝くことが出来るなら、それこそ本望なのではないでしょうか。だとしたら、嘆くのは苦労の多さではなく、目指すべきものの無いことでしょう。もちろん、それに年齢は関係ありません。
挑戦するものが無くなって、意欲が低下したら生への執着も薄れてくるので、欲と理想を持った充実した生というものが、死をできるだけ遠ざける特効薬のようなものになるのかもしれません。というのも、何かに向かっているという感覚が物語としての流れを生み、それがあれば困難があってもその文脈の中で位置づける事が出来るので頑張れるからです。つまり、常に今生にやり残していることがあるという状態が、最も生を輝かせる原動力になるのではないでしょうか。
人生の目的とは
人生は「生きなければならない義務」ですか?それとも、「与えられたチャンス」ですか?それとも、「何かをやる為にある」のですか?働いて、働いて、合間に余暇を楽しんで、又働いて、そして老いて死んでいく。人生ってそんなもの?「何の為に生きている?」という問いに対して「自分はこれをやる為に生きている」と即答出来る人は正直羨ましい。自分が食べて寝ることによって得たエネルギーを何処にぶつけるのか、何に向かって使うのか。これが人生の一大事で、ここに人生観が出ます。命には限りがあり、悩んでいようがいまいが確実に持ち時間は消費されていく。結局は、その限られた時間をどう使うか。ただ楽しく平穏無事に暮らすのも一生なら、波乱万丈であっても何か事を成そうとするのも一生。どうせ生きていかなくてはならないのなら、どう生きるかを自分の意志で選択して後悔のない人生を歩みたいものです。
では、人生の目的は何か。人は何に向かって生きているのか。人類は有史以来この命題を問い続けてきました。これについては、人類の叡智を集めた結果、「幸福」ということで一応の結論が出ています。もちろん、目指すものは人それぞれなので人の数だけ答えはありますが、大きな枠組みでとらえれば概ね納得できる答えではないでしょうか。
問題は、何をもって幸福とするかです。これは人によって価値観が異なるので一律に断定する事は出来ません。というのも、幸福を感じるのは主観的な事柄なので、まったく同じ条件下であっても価値観の相違やその捉え方次第で一方は幸福を感じ、一方は不幸を感じるということが起こり得るからです。つまり、幸福の価値観が人によって異なる以上、一律にこれが幸福だと決めることが出来ないということになります。とはいえ、そこは同じ人間同士。共通するカテゴリーで分類することは出来ます。“仮に”大きく分けると、動物としての本能に基づいたベーシックな幸福と人間としての欲求に基づいたヒューマンな幸福に分けることができ、後者についてはさらに利己的な幸福と利他的な幸福に分けることが出来ます。ここでいう所の「ベーシックな幸福」とは、食べる、寝るといった生理的な欲求を満たし、健康且つ身の安全を確保した上で家族や仲間に恵まれた状態を指します。「利己的ヒューマンな幸福」というのは、ベーシックな幸福を確保した上でさらに自分のやりたいことをやりたいようにやっている状態を指します。「利他的ヒューマンな幸福」というのは、ベーシックな幸福を確保した上でさらに自分の行為が社会の幸福に貢献していて、それを社会に評価され喜ばれている状態を指します。ベーシックな幸福は、基本誰しも求める事ではありますが、そこで満足するのか、それともさらにその先の幸福を求めるのかで、生き方が決まってきます。
この幸福は、別の言い方をすると「満足」と言い換えることも出来ます。つまり、人は「満足」を目指して生きているのだと。結局のところ人生なんて、最後の日に振り返って満足の人生だったと思えるかどうかで決まるのではないでしょうか。しかし、何をもって満足とするかは人によって異なるので、まずは自分にとっての満足を把握認識する必要があります。例えば、普通に暮らせればいい人にとっては、リスクの高い波瀾万丈の人生は合わないし、普通の暮らしでは満足出来ない人にとっては、平凡なサラリーマン生活は苦痛でしかないでしょう。つまり、自分の本質がどのようなタイプなのかを把握した上で、それを踏まえた選択をしないと満足のいく人生にはならないということです。ゆえに、まずは自分の本質がどのようなタイプなのかを把握する必要があります。
第二章 何を元に?
価値観について
昭和的価値観と思われるもの
・ 物に幸福を求めた。
・ 社会が価値観を提供した時代。
・ ○○しなければならないという義務意識が強い。
・ 画一的なステレオタイプの価値観による義務意識が人を動かす原動力。
・ そこから外れた価値観を認めようとしない社会。
・ 仕事をしなければならない(特に男性)。
・ 家事をしなければならない(特に女性)。
・ これが幸福というものだという雛形が存在し、それに向かってレールが敷かれていたので人生についてごちゃごちゃ考える必要がなかった。
・ 仕事=お金=幸福と信じて疑わない。
・ 右肩上がりの経済成長、終身雇用、年功序列の社会システムを背景にしていたので、最初に入った会社で一生勤める感覚があり簡単には辞めない。
・ とにかく働いて金を稼げ。仕事はお金を稼ぐ為にするものなので、辛く厳しいは当たり前で、それを辛抱して勤め上げるもの。そのお金があれば、家でも車でも欲しいものを買えて家族が持ててレジャーにも行ける、それが幸福というものだ。
平成的価値観と思われるもの
・ 心に幸福を求めた哲学無き時代。
・ 自分の本来あるべき姿でいたいのであって、社会が決めた○○しなければならないという義務に従う気はない。義務意識が薄れているので働く動機が弱い。
・ 多様な価値観。
・ 自分と違う価値観を認めようとしない社会。
・ 哲学の無い自由の場合、個人の欲求が行動の原動力になる。
・ 必ずしも仕事をしなくてもいい→ニートの増加。
・ 必ずしも結婚しなくてもいい→未婚者の増加。
・ 終身雇用、年功序列の社会システムは崩壊しているので、最初の会社に一生勤める感覚はあまり無い。ゆえに、我慢して嫌な仕事を続ける感覚が無く、これは違うとなればさっさと辞める。
・ 生まれた時から不況なので、お金での幸福はあまり期待しておらず、この中をどのようにして生きていくのかを滅茶苦茶考えさせられている。
・ どうせ豊かな暮らしは望めないなら、仕事にはお金よりも楽しさややりがい、そして自分にとっての意味を求める。
・ 20歳から60歳という人生の最も動ける時を使って取り組む仕事が不本意なようでは、幸福な人生であろうはずがないと感じている。ゆえに、妥協して嫌な仕事をしながら一生を棒に振るぐらいなら、ニートになってもいいから辞めてしまう。
・ 価値基準は損か得か
このように、価値観は、相対的且つ流動的で社会状況によって変化してきています。これは、日本人に軸となる思想哲学等がなく、周囲に流されやすい傾向である事を示しています。
さて、人は恩を受けたらそれに報いたいという気持ちが自然に生まれます。そこに難しい思想や哲学はいらないでしょう。それは動物でも見られる自然なこと。誰の世話にもならないで、これまで生きてこられた人は誰もいません。親、兄弟、先生、仲間、社会といったところから有形無形の恩を受けています。もし、本来ならそれに報いるところを、何もしないどころか逆に仇で返すようなことがあれば、それは人の道から外れた行為といえます。ゆえに、人倫の1丁目1番地は「恩に報いる」ということではないでしょうか。
では、世話になっていなければ何もしなくていいのか。それでは打算的な世の中になってしまうでしょう。世話になっていようがいまいが、困っている人を見たら思いやりの心で手助けをするほうが、より豊かな社会であることは間違いありません。相手の立場に立って考えれば、いじめや嫌がらせなんて出来ません。細かい倫理やマナーの一つ一つを覚えなくとも、思いやりの心一つあればいいわけです。ゆえに、人倫の1丁目2番地は「思いやり」ということができます。
善と悪
ただ、食べて、寝て、子孫を残すというだけでは、動物と変わりがありません。人を人たらしめているものは、理性を持って行動することではないでしょうか。問題は、その意思と行動が善なのか悪なのかということです。ただ、主義主張を持つだけならテロリストでも持っています。当人達にとっては、「自分たちの行動は、他者の犠牲を伴っているかもしれないが、自分たちが考える正義の為ならやむをえない」ぐらいに思っていてもおかしくありません。しかし、別の立場から見れば極悪な行動以外の何ものでもない訳です。つまり、相対的な善と悪は示すことが出来ても、絶対的普遍的な善と悪を定義することは簡単ではないということです。
一般論としては、「他者の幸福に貢献することが善で、自己の利益の為に他者を犠牲にすることが悪」という言い方も出来ます。しかし、いくら善だからといって自己を犠牲にして他者に貢献するということはなかなか出来るものではありません。しょせん人間も動物なので、本能の影響は避けられません。利他の本能もありますが、自己防衛とか種族保存の本能の方が強いので、自分と家族を中心に考える自己中心性は避けられないものです。ゆえに、あくまでメインの目的は自分の幸福の為ということになります。それでも他者に貢献できるケースがあるとすれば、自分が幸福になる手段として他者に貢献する場合です。つまり、「他者に貢献することが自分にとっての幸福になる」ということです。むしろ、人間というのは、自分の行為によって人に喜んでもらって感謝された時に最も幸福を感じる生き物かもしれないのです。これを、国家にあてはめると、自国の利益の為に他国を犠牲にしたらそれは悪ということになり、他国に貢献することによって自国の幸福を獲得するというやり方ならそれは善ということになります。
しかし、実際の国際社会はそんなきれいごとで動いていません。普段は友好的な素振りをしていても、外から攻めてくる集団が出現したらどうなるか。内側の立場では、その外側の集団は自分達を害しようとする悪であり内側の仲間を守ることは正義となります。その状況では、悪である外の集団を攻撃しても痛みや罪悪を感じるどころか喜びすら感じるようになります。又、逆に侵害しようとしている外側の集団の理屈は、仲間を愛するあまり自分達が生き残る為に他の集団を攻撃して糧を奪うことになってもそれはしかたのないことと思っています。この理屈で長年人類は戦争を繰り返してきました。これは人間の本質に関わることなので、時代や場所が変わってもいまだに人類は戦争をやめることができないでいます。
現代の競争社会においては、他人は競争相手であり「相手を蹴落としてでも」という心理が強く働いています。そこに生きる人々は、ますます自己中心的なエゴの生き方を増長させています。国どうしでも、国家エゴの衝突が日常茶飯事となっています。そうした状況で成り行きにまかせると、自分が幸福になる為に他者を蹴落とす選択になりがちですが、意識的に他者の幸福に貢献することによって自分も幸福になるという選択をすることもできるわけです。同じ幸福になるなら、他者を犠牲にするよりも他者に貢献するほうがいいに決まっています。
個と環境は不可分の関係にあります。自分の中に善悪すべての要素が備わっているし、社会も善悪全ての要素が備わっています。ある社会現象というのは、自分の中にある一つの側面が強調された姿に他なりません。悪い面が前面に出ている人であっても、良い面も絶対にあります。それぞれの最も強く出るところがその人の個性として強調され、それぞれの個性が集まって社会を構成しています。その社会を構成している個性は、法律によってのみ行動の是非を決めている訳ではありません。自分の中でも線引きをしていて、この範囲内はOKでここからはみ出たらそれはNGという許容ラインを自分なりに持っています。それはどちらにしても法律には触れない範囲のものですが、それを冒すことは自分らしくないし社会の常識からも外れると思って自制している訳です。社会というのは、全てを法律で規制しきれるものではありません。そこから漏れた部分を、こうした道徳・規範・モラルといったものでカバーしています。
公と私
その社会の恩に報いようとする気持ち、自分だけよければいいのではなく社会の持続や発展の為に、自分のその社会での役割を果たしていこうという意識が「公の意識」に繋がるのですが、おぎゃあと生まれて自然に任せると、仲間を大切にするところまではいきますが、その先となるとままなりません。「公」というのは目に見えないがゆえに、形而上学的な視点が必要になります。個人で妄想するだけなら「私」であり、フィクションに過ぎませんが、それを不特定の他者がそれぞれの視点で評価できる環境に置くことによって「公」にすることが出来、場合によってはそれがノンフィクションに変貌します。例えば、本の出版や選挙などは、公になった時点で暫定的なリアリティが付与されますが、複数の目に晒されることによって取捨選択が行われ、非現実的なものや評価の低いものから淘汰されていきます。民主主義・資本主義のシステムでは、これが機能することによって、悪い分子を排除しているわけですが、ナチスはこの選挙のシステムを擦り抜けて政権を奪取し、独裁政権を実現させました。「公」になるところまでは万人に開かれていますから、その善悪の判断は大衆に委ねられることになります。そこが機能しないとなると民主主義そのものが危うくなります。民衆の思考停止に付け込まれる訳ですから、民衆が賢明になることが重要で、それには集団を構成している個々人が、個を確立させて、ただ社会の風潮に流されるのではなく自分で考えて行動していくことが求められます。
集団主義と個人主義
哲学的には、人生の目的は“幸福”ということでおおよその結論が出ている。
→それは“満足”と言い換えることもできる。
→何をもって満足とするかは人によって異なる。
→つまり、人は“自分にとっての満足”を目指して生きていることになる。
→これが基本的な判断の基準点になる。
→これを実現する事が個人の目標であるのと同時に、国家の目標であるというのが理想。
→これでいくと、国家の発展の為に個人がいるのではなく、個人の幸福を実現させるために国家があるということになる。
→集団主義の社会では、個人よりも集団の利益が優先されがちで、個人は我慢を強いられることが多いので、自分にとっての満足を追求するには障壁が多い社会といえる。
→個人主義の社会では、個人は個人の意志と選択によって行動し、社会はそれを尊重しようとするので、自分にとっての満足を追求するには適した社会といえる。ただ、基本的に競争社会なので、勝ち負けは自己責任ということになる。
→この場合、行動が個人の意思に任されているので、利己的で自分勝手な人ばかりだと殺伐とした社会にならざるを得ない。
→ゆえに、個人主義の社会では、利他的な志向をもった個人の存在が不可欠で、「とにかく相手を思いやる」という倫理観の共有によって成り立っている。つまり、成熟した個を尊重する個人主義社会を標榜するなら、個々人に利他的な思想が求められる。
→結局のところ、自分にとっての満足を得るには、自分の意志によってあらゆるものが自由に選択できる環境が必須となる。自分がこうしたいと思ってもその社会の慣習や統治機構によって妨げられる事があれば、自分にとっての満足を得ることが難しくなるからだ。その観点で見た場合、集団主義は、個人に対して同調圧力がかかっているので、自由な選択という意味では障りがあると言える。個人主義は、個人の意志と選択を尊重するという立場なので、自分にとっての満足を得るには適した環境と言える。
集団主義
…個人は、自分の社会での役割を理解し、それを果たそうとします。
◇ 人類は進化の過程で狩りや農耕を通して「仲間を大切にする」本能を獲得してきているので、自分の所属する集団の為に貢献しようとするのは自然な感情といえます。ゆえに、自然な流れに任せれば必然的にそうなってくるようにできています。西洋の個人主義も近世に入ってからの概念であって、それ以前はヨーロッパにおいても集団主義であったといえます。
◇ 集団主義は、個よりも自分の所属する集団を優先する概念であって利他主義とは違います。集団主義は一見利他的に見えますが、見方をかえるとその実は、仲間内の利益ばかりを考える利己的な一面が強いものであったりします。
◇ 集団主義の社会では、思想哲学を持っていない場合、その集団でより多くの人が是としているものが普通や常識といった基準となって物事が判断されていき、そこからはみ出たものは、「常識の無いやつ」「変わったやつ」とみなされて少なくとも良くは思われません。ゆえに、少数派や個性派には住みにくい社会となっています。日本は、典型的な集団主義の国ですから、多数派が巾を利かし、少数派は肩身の狭い思いをしています。この日本型集団主義は、多数の幸福の為に少数の犠牲はしょうがないという功利主義との親和性も高いですから、個人主義社会ばりの弱肉強食の競争社会となり、勝ち組負け組の二極化が進み、その中で負け組(下流)となってもそれは努力と才能が足りなかった自己責任ということで顧みられることはありません。そういった息苦しい社会に馴染めずはみ出た人々、又は、そういった社会の構造によってはじき出された人々が、行き場を失って社会問題化しています。
◇ 個人が何かを作ったとしても、無名の個人では見てももらえないので、評価を受けるチャンスを得にくい社会といえます。
◇ 典型的な集団主義社会で且つ先進国である日本で、幸福度ランキングが低く(51位)自殺率も高い(7位)ということは、経済的な豊かさがあっても幸福を感じにくく生きづらい社会ということになります。
◇ 世間の目と同調圧力がきついので本音で生きづらい。つまり、建前の社会。世間からどう見られるかを常に気にしています。ゆえに、不自由な社会といえます。
◇ 個人はその集団の常識・普通を理解してそれに合わそうとするし、合わせることを集団から求められます。それが自分本来の姿ではない場合、建前を演じることになります。
◇ 本音と社会通念が同じなら、ストレスを感じることなく本音で生きられますが、この社会通念には見栄や体裁が含まれていますから、建前が横行することになります。
◇ その集団の常識・普通が価値観の基準になるので、個人は自分の思想を持たない方が生きやすくなります。
◇ 人類は有史以来基本的に集団主義できましたが、封建制、絶対王政、社会主義等に見られるように、支配者と被支配者の構図になってしまい、個人はその体制の中に組み込まれて自由が制限されることになります。つまり、個人の幸福という観点でみた場合、それを得にくい社会といえます。
◇ 道端に落ちている使い捨てマスクを見ていると、日本人が壊れてきているなと感じます。日本人がこれまで高い民度を示しえたのは、無思想且つ集団主義で、その社会で普通・常識とされている価値観に個人が合わせようとし、そのレベルが高かったからであって、その縛りが無くなれば、人間本来の自分勝手な側面が現れることになります。
個人主義
…個人は、個人の意志と選択によって行動し、社会はそれを尊重しようとします。
◇ 個人主義は、近世ヨーロッパの宗教改革や自然科学の前進、啓蒙思想、人権意識の発展に伴って発達してきた概念で、これを成立させるには自然発生的な集団主義と違って、その社会の中でコンセンサスを得て、強固な思想哲学を基盤に置いて、確固とした意志と選択が必要になります。
◇ 個人主義は、他者の個を尊重する概念であって利己主義とは違います。そうでなければ、寄付やボランティアの文化など育つはずがありません。
◇ 自由と尊重が基軸。自分の自由を主張するのと同時に、相手の自由も尊重することで成り立っています。
◇ 自由にやっていいよ、でも自己責任でね、という世界。当然、弱肉強食になり勝ち組負け組の二極化が進み格差社会となりがちです。ただ、負け組に対してのセーフティーネットをどうするかについては、その国の政策によって大きく異なることになり、例えば、イギリスのように「ゆりかごから墓場まで」といわれるぐらい社会福祉制度を充実させようとしている国もあるので一概には言えません。
◇ 実際それがどうなのか、個人が中身を見て判断するので、無名の個人であっても評価を受けるチャンスを得やすい。
◇ 典型的な個人主義社会で且つ先進国であるアメリカで、それほど幸福度ランキングが悪くなく(14位)自殺率も低め(15位)ということは、弱肉強食の格差社会であっても生きづらさはそれ程ではないということになります。
◇ 個人の自由を尊重してくれるので比較的本音で自分らしく生きやすい。ただ、それぞれが自分勝手にしていると収拾がつかないので、個々人において自分を律する思想哲学の保持というものが求められます。
◇ 個人主義というのは、多分に思想的観念的なものの上に構築されているものなので、形而上学的なバックボーンを失ったらその瞬間に霧散してしまう。
◇ 個人が自分の価値観を自分で選択する必要があるので、無思想では成り立たない。しかし、思想によっては特定の人種を差別したりすることがあるので慎重さが求められます。
人間の存在をどう捉えるか。社会との関連性の中で存在していると捉えれば集団主義的になってくるし、個人が個々に幸福を追求する存在と捉えれば個人主義的になってきます。「人間は社会的な動物だ」というのは真であろうし、「人間は個々人で幸福を追求する存在だ」というのも真でしょう。それらが人間の本質を捉えていたからこそ、アジア的な集団主義も永く続いてきたし、欧米的な個人主義も歴史は浅いながら続いてきました。その中でもより本然的なのは「人間は個々人で幸福を追求する存在」ではないだろうか。この場合、何をもって幸福とするかは人によって異なるので、自己満足でOKの人もいれば、社会的な貢献をすることが幸福という人もいる。その選択を自由にできるのが個人主義で、社会的な役割を果たすことを暗黙のうちに要求されるのが集団主義だとすれば、自由という意味で個人主義のほうがより人間の幸福に近いといえるかもしれません。
現在、集団主義の国も個人主義化が進んでいます。つまり、個が輝く時代。自ら光を放つには、自分の考え、思想哲学が要るし、目標・目的も自分で見つけるしかありません。
モチベーション
…物事を始めるには動機がいりますが、物事を続けるにはモチベーションがいります。
近年のモチベーション研究は、企業や学校からの「どのようにすれば、従業員や生徒が仕事や勉強に打ち込んで成果を上げられるようになるのか」という要望に対して応える形で発展してきました。つまり、組織が個人を如何にやる気にさせるかというマネジメントの問題です。しかし、これまでの組織からのアプローチで個人が「やらされる」スタンスでは、AI時代を乗り切っていけないので、これからの課題は、どのようにしたら個人を「自主的に取り組む」スタンスにさせることができるかに移ってきています。個人にとっても、それをやりたいからやっているのではなく、生活の為家族の為やらなくてはならないからやっているというスタンスでは、これからの時代を乗り切っていけないので、双方の利害が一致した課題となっています。
そうした中、これまでのアメとムチのやり方では、かえって創造性のパフォーマンスが落ちるという研究結果から、第3の動機づけとしてダニエル・ピンクが、著書「Drive」(邦題モチベーション3.0)で提唱しているのがモチベーション3.0です。「モチベーション1.0」は、生理的動機づけと呼ばれ、本能的なものを指します。「人間は生物的な存在であり、生存の為に行動する」とし、人間は生き残るためのモチベーションシステムを生来的に備えているというものです。「モチベーション2.0」は、外発的動機づけと呼ばれ、アメとムチによって人を駆り立てるものを指します。会社は従業員にしっかり働いてもらうために、人の「報酬を求め罰を避ける特性」を利用して、賞罰によって人を駆り立て成果を上げようとしてきました。確かに、ルーチンワークにおいては有効な手法でしたが、特にクリエイティブな発想力が求められるこれからのAI時代にはそぐわなくなってきました。そこで、「モチベーション3.0」が提唱されました。これは、内発的動機づけと呼ばれ、好きだから、面白そうだから、重要だからやるといった、自分の内側から湧き上がってくる「これをやりたい」という思いを原動力にしています。その上で、人は本能や賞罰だけで動いているのではなく「人間には学びたい、創造したい、世界をよくしたいという第3の動機づけがある」とし、それは自主性、成長、目的という3つの特徴を持っていると主張しました。(1)自主性:自らの意思で行動を決める 自分の人生の方向は自分で決めたい(2)成長:意義あることの熟達を目指して打ち込む 何か大切なことについて上達したい(3)目的:さらなる高みへの追求を、大きな目的へと結びつける 私たち自身よりも大きな何かのためにやりたいという切望。例えば、(1)の自主性に対する取り組みの事例としては、Googleが導入している「20
Percent Time」があります。これは、「労働時間のうちの20%を個人的な取り組み(サイドプロジェクト)のために使ってもよい」というもので、これをやった結果「Gmail」「Google
Map」など新製品の半分近くをこの20%の時間から生み出すという成果を出すことができました。
結局のところ、人生は意欲の有無強弱で決まる。意欲を持ってバンバン努力すれば満足の人生に近づき、意欲が湧かずそれなりに過ごせばそれなりの人生になっていく。その意欲をどう引き出してくるかにかかってきます。ただ、その意欲の源泉が心に関わっているがゆえに、自分でコントロールすることが難しい領域となっています。つまり、いくら頭で頑張ろうと考えても、気持ちが乗らなければ積極的な行動に繋がっていかないということです。
さて、幼少時代の価値観は、好きなこと楽しいことをしたい、嫌いなこと苦しいことはしたくない、という選択基準で概ね動いています。なので、基本的に楽しい遊びは黙っていてもやりますが、苦しい勉強はやかましく言わないとやりません。しかし、小学校、中学校と学年が上がっていく中で、将来の為には嫌いな勉強もやらないといけないという気持ちが芽生えてきて、嫌いなこと苦しいこともやるようになります。ただ、どこかで自分なりの価値観を持たない場合は、基本的に「好きなこと楽しいことをしたい」という価値観は変わらないので、将来の選択時に影響を及ぼすことになります。基本勉強も仕事も苦しさを伴いますから、好きなことだけしたいという子供時代の価値観から脱皮できていない人は、進学も就職もしたくない、やる気が出ないということにもなりかねません。そのままニートということもあるし、無理やりどこかに進学や就職しても長続きしないということもあります。非正規の職に就いて職を転々とする人生が待っているかもしれません。つまり、意欲の有る人と無い人で2極化が進んで、そこに人工知能が仕事を奪っていきますから、その差は開く一方ということになります。ゆえに、意欲、やる気、モチベーションを如何に持てるようにするかということが個人においても社会においても喫緊の課題ということになります。
人は意欲が湧かなくても「ねばならない」という義務感で動くことが出来ますが、その縛りが無くなったら動けなくなります。働かなければならないという観念が社会に強くあった時代では、気が進まなくても義務感で働けました。その縛りが弱くなった現在においては、ニート・ひきこもりが約100万人に達していることでも分かるように、もはや社会規範で個人の行動を規定できなくなったといえます。そうなると、これまでの義務感に代わる人のモチベーションを上げるものを見つける必要が出てきました。
目の前に人参をぶら下げたら、その時は頑張るかもしれませんが、そのような外発的動機づけは、それが無くなればそれで終わるし、効果を持続させるには人参の量を増やす必要が出てきます。それよりも如何に内発的動機づけを獲得できるかに腐心すべきでしょう。報酬を貰うかわりに会社から指示されたことをやる。これを続けていたら労働意欲は低下していきます。やらされ感が強いからです。逆に、自分の自由裁量で仕事してその成果に対して報酬を貰う。これは、労働意欲が増していきます。自発的に取り組んでいる感が強いからです。 報酬を貰っているので時間内は頑張るというのは、やらされている「労働」です。これは自分がやるべきことだと思って自発的に取り組んでいるのは、やらせてもらっている「仕事」ということになります。基本的に人は、辛く苦しいこと、めんどくさいことはしたくないという怠け心が常にあるので、それを上回る動機がないと動けません。
人は基本的に幸福を目指して生きています。快適な家に住み、美味しいものを食べ、心身共に健康で、親しい家族友人に囲まれ、やりたい仕事が出来ている。これらを手に入れようとして日々活動しているのが生活というものです。これが幸福だとしたらそれを手に入れたいと思うのが欲です。つまり、人間の動く原動力は欲ということになります。日常生活や野心は言うに及ばず思想哲学からくる崇高な志であっても、欲から切り離されたものではありえません。例えば、社会の役に立ちたいと思い行動したとしても、それは社会の役に立って喜ばれることに満足感を感じる自分がいるからであって、純粋に思想哲学だけによる行動であった場合は、それを長年に渡って継続することは難しいものです。つまり、理念を実行していくには欲という薪が必要になるということです。
人を動かす原動力は、欲。それがエンジンになります。人が目指すものは、理想。それがハンドルになります。欲だけでは、ハンドルの無いフェラーリに乗るようなもの。理想だけでは、エンジンの無いポルシェに乗るようなもの。結局どちらが欠けても満足のいく人生を送ることは出来ません。志といっても、欲から離れたものでなく何処かで繋がっているものです。そうでなければ、人生の全てをかけてそこに邁進するなんてことは、できるはずがありません。ただ、志が無いとなると、欲だけが動く動機になるので欲に支配された人生になります。それでいいのかという問題です。若い時はそれでいいのかもしれませんが、ある程度の年齢がいくとそこに意味が欲しくなります。人生の折り返し地点を過ぎて残りの人生が見えてくると、無意味な人生で終わるのは嫌だという思いが湧いてくるからです。ここでいうところの意味とは、自分の存在意義といえるもので、自分を取り巻く人々や社会にとって、自分が生きることでどのような影響を及ぼすことができたのかが気になるのです。
人間は将来に希望を託することができれば、現在がいかに苦しくても我慢ができる生き物です。運動部の部活で苦しい思いをしても続けるのは、好きとか目先の大会でいい成績というのもありますが、鍛えることによって心身共に強くして、将来の社会生活に生かしたい思いもあるからです。勉強で苦しくても続けるのは、目先のテストでいい点取りたいというのもありますが、いい大学に入っていい企業に入って将来勝ち組に入りたいと思うからです。つまり、この苦しさには意味があり、将来の幸福に役立つと思えるから現在頑張れるわけです。もし、単に苦しいだけでそれが報われることは一生無いとなったら、頑張る気にはなれないでしょう。辛い苦しいを耐えられるのは、その先に希望があったればこそ。ただ辛い苦しいだけの人生だと、何のために生きているのか分からなくなります。幸福を目指しているという時点で、今は理想的な幸福状態ではないということになります。それでも、未来に今よりもっと幸福になれる可能性を信じているからこそ、それに向かって前進できます。それが希望というものです。それは現実を直視しない夢想の場合もありますが、それが無いと頑張れないのが人間というものです。
自分のエリア即ち「内側」と認識している部分に関しては、大切にするので時間もお金も労力も惜しみません。この内側に対して、「○○は本来こうあるべき」といった価値観に基づいて、これは自分の役割と判断したものに関しては義務感が生じます。その状態が一定期間続くと、それが普通になり常識になります。反対に、これは自分の管轄外と判断したものに関しては、自分から進んでやることはありません。その状態が一定期間続くと、それが普通になり常識になります。自分のエリア外即ち「外側」と認識している部分に関しては、関心が無いので、そこに時間やお金や労力を使うことに抵抗があります。例え、内側であってもそれが自分の役割だと認識出来なければ動けません。まして、外側の場合はさらに動けない。となると、社会貢献に向かって動き出すには、まず、その社会を「内側」と認識した上で、それが自分の役割だと自覚する必要があります。自分の家族であってもその為に動けないこともあるのに、まして他人の為に動くということが、いかにハードルの高い行為であるかが分かると思います。
生きることは熱を持つこと。その熱が行動の動機にもなり原動力にもなります。何が熱を生み出すのか。夢を持つ、使命を自覚する、といったポジティブなこともありますが、憎悪や嫉妬といったネガティブなこともあります。つまり、熱といっても善悪両面あって必ずしも良いことばかりではありません。えてして人類の歴史は、ネガティブな熱によって動いてきたといっても過言ではありません。というのも、人間の欲望は簡単に熱に変わるが、思想哲学から来る正義の志を熱に変えるのは容易ではないからです。
人間の欲には善悪があります。つまり、人間は本来、性善でも性悪でもなく両方を併せ持った存在といえます。人間の欲は利己的になりやすく、それを追求すれば他者との間で摩擦を生むことになります。ゆえに、必要悪として受け入れながらも、高尚な理念を持ってコントロールしていくのが望ましいといえます。
人が行動するには、理詰めでそれをやる必要性を自分に納得させて自分の中で「やる」と決意させるか、気持ちの部分でそれをやりたいと思うか、どちらかの動機が必要になります。特に気持ちの部分がやる気にならないと、その行動は出来たとしても全力では取り組めないでしょう。
自分を動かす原動力(行動経済学での分類)
市場規範で動く 報酬を得るための行為(お金を介した合理的なやりとり)
金銭的なつながりや関係性を基にした価値判断。賃金、価格、利息など。
報酬を得たいという思いで動いている(仕事等)
根拠 生きていく為には収入が必要
社会規範で動く 社会を良くするための行為(人間関係の中で守るべき道徳や規則)
社会的なつながりや関係性を基にした価値判断。友人がソファーを運ぶのを手伝ったり、プレゼントをあげたりという、値段の見えないもの。 社会を良くしたいという思いで動いている(ボランティア等)
根拠 他人の為にお金を使っても幸福度は高い
※日本人は内側の範囲が世界の他の国と比べて狭く、ほとんど家族から一歩出るとそれは外側になる。ゆえに、いくら他人の為にお金を使う行為の幸福度が高いといっても(研究で証明されている)ここでいう社会というのは精々日本という国止まりで外国までは及ばない。外国は内側の範囲が広いので、自国に留まらずもっと世界に広がっている。
普通教
日本は、いわば“普通教”とでも言うべき信者で溢れています。男が働くのは当たり前、女が家事をするのは当たり前という環境で育ったら、自然とそれが当たり前という価値観を持つでしょう。当たり前のことというのは、その社会でそれなりの期間継続されることによって確定します。例えば、戦国時代では、他国に攻め込んで領土を拡大する行為が約100年続いたので、それが当たり前のことになっていますが、令和の世でそれをやったら侵略行為として厳しく糾弾されます。つまり、当たり前の行為というのは相対的なものであって、時代によって変遷していく性格があるということです。その当たり前という認識は「ねばならない」という義務意識を生みます。つまり、男は働かねばならない、女は家事をせねばならない、となります。これは、その社会が長年かけて築き上げてきた、習わし風習の類で、普遍的な価値観とは異なります。しかし、その社会で育っていくと自然と体に沁み込んできて、無意識のうちに刷り込まれていきます。特に自分で選択した思想哲学等を持っていない場合は、この「普通」「常識」が判断基準になります。自分の中に幹となるものが無ければ、その時代の流れに翻弄されていくしかありません。
要するに、無思想で集団主義の社会では、普通こうだろという感覚が基準になります。これが普通だという感覚は、一定の期間継続してそれが多数派を占めていることが条件になります。ただし、その普通は普遍的なものではなく、時代や地域によって変わってくることになります。江戸時代の普通は現代の普通ではないし、ロシアの普通は日本の普通ではありません。この社会では「○○はこうだ」というステレオタイプの認識が、「○○はこうあらねばならない」という固定観念に変貌していきます。こうなると、そうなっていない場合は批判される対象になります。つまり、個人が自分の自由な価値観で生きていこうとしても、社会の側からは同調圧力が働いて、それに沿って行動するよう暗に求めてきます。それに馴染めない人が、社会からの撤退を余儀なくされています。
世間は、常識によって安定しています。非常識な人間は、その安定を破壊するので世間から煙たがられます。常識を疑い、それに唯々諾々と従うことを拒み、それとは異なるものを提示したものは、その社会からすぐには受け入れてもらえません。しかし、人類の進歩はその「変わり者」によってなされてきました。そして、その変わり者を支持する数が半数を超えた時、それがあらたな常識となり文化や歴史が紡がれてきました。これまでやっていることを惰性で継続するのは簡単です。それが習慣になっているからです。これまでやって来たことを止める、若しくは、これまでやっていないことを始めるには強い動機や理由、そして莫大なエネルギーが必要になります。それが習慣になっていないからです。例えば、ニートが働けない理由の一つは、働かないことが習慣になっているからです。やれることから始めて働くことが習慣になれば、働くこと自体はそれ程難しいことではなくなるはずです。ただ、それが本人にとって本当にやりたいことかどうかは又別の話になります。
この慣れ・習慣というものをうまく活用すれば良い方向にいくこともできますが、それは諸刃の剣です。それは本来問題があることでも、それに慣れてしまうとそれを問題と思わなくなってくるからです。つまり、第三者から見たら高速道路の真ん中で寝ているぐらい危険な状況でも、当の本人はその状況に慣れてしまっていて、思考停止状態でそこに留まっているという事が起こり得るということです。それぐらい、慣れというのは怖い。当人がそれを普通のこととして悪く間違ったことだと思わなくなっている訳ですから。ゆえに、習慣の効能を利用していい方向にもっていくのはいいとして、その弊害もあることを認識しながら運用していくことが肝要になります。
思想哲学
利他的な生き方が推奨されますが、ちょっとした思いやりや親切心は人間性の中に標準装備されていて、それが機能している範囲では社会的にそれで充分であって、それ以上を求められている訳ではありません。つまり、人間性に標準装備されていたり、社会貢献に喜びを感じるタイプの人が一定数いるので、自然に任せても社会はうまく回っていくことになります。しかし、それが機能していないからこそ、社会がギスギスして摩擦が増えてきているのではないでしょうか。というのも、人間にはブラックな部分も内在しているからです。光と闇が同居しているようなものです。でなければ、「人の不幸は蜜の味」なんていう諺があるはずありません。自然に任せているだけではうまくいかないとなると、意識して思想哲学を持つことも考慮していかないといけなくなってきました。しかし、それも簡単な話ではありません。
NHKの哲学的街頭インタビューという番組の中で、「何のために生きていますか?」という問いを道行く人にしていて、その答えの集計が、家族のため26% 人生を楽しむため20% 分からない17% その他37%(調査数92人)という結果になっていました。(2023年7月17日放送)確かに、調査人数も少ないですし選定方法もランダムとはいえませんが、それでもおおまかな傾向は出ているように思います。すなわち、日本人は自分の自然な考えで生きている人が大半で、思想哲学を保持してそれに基づいて生きている人は少数派であるという傾向です。つまり、以前から言われていた「日本人は無思想」ということが図らずも確認された形になりました。哲学的には「人生の目的は幸福」ということで一応の結論が出ているので、この質問は「あなたにとっての幸福とは何ですか?」と聞いているようなものです。それに対しての答えが「家族」とか「楽しむ」ということですが、それは思想というより自然な考えなので、これを見る限りにおいては、ほとんどの人がただ何となく生きているといっても過言ではありません。それで満足の人生が送れるならそれに越したことはありませんが、実際そうなっていないからこそ問題が種々噴出しているのではないでしょうか。
無思想の集団主義から無思想の個人主義へ
人が持っている価値観には、「無意識の領域」と「意識の領域」があって、無意識の領域には、「持ってうまれたもの」と「育った環境の中で影響を受けたもの」があり、意識の領域には、「自分の自然な考え」と「自分の意志で選択した人生哲学」があります。そして、人の生き方を突き詰めると、この自分の自然な考えで生きるか、それとも自分の意志で選択した人生哲学を保持してそれに基づいて生きるかの2択になります。そこに自分が所属する社会の主義が影響を及ぼしてくることになります。
自分の自然な考えで生きる場合は、持って生まれたものや育った環境の中で影響を受けたもので構成された無意識の領域の価値観に多大な影響を受けることになり、自分の意志で決めたように思っていても、実際はその前に無意識の領域で決められていたという事が頻繁に起こりえます。そしてこの場合、その時代その集団でより多くの人が是としていることが普通・常識となり、それが価値規範となっていきます。一方、自分の意志で選択した人生哲学を保持してそれに基づいて生きる場合、無意識の領域の価値観からの影響は軽減できますが、その保持する思想哲学の内容は激しく問われることになります。というのも、正しい思想を持てば善い方向に向かいますが、間違った思想を持てば悪い方向に向かってしまう危険があるので慎重な選択が求められるからです。
自分の自然な考えで生きる人々の所属する社会が個人主義の場合、相対的に持って生まれたものの影響が大きくなって自分勝手な振る舞いになりがちですが、この人々はそれを制御する思想哲学を持っていないので、無意識の領域の価値観が巾を利かすことになります。つまり、無思想の個人主義(例えばこれからの日本)は制御が効かず殺伐とした社会になりかねないということです。それが集団主義の場合、相対的に育った社会環境の影響を受けやすくなりますが、この人々はそれを凌駕する思想哲学を持っていないので、無意識の領域の価値観が巾を利かすことになります。つまり、無思想の集団主義(例えばこれまでの日本)は社会の倫理慣習が良いものなら良い人生に繋げていくことができますが、そうでなければ危うくなります。
自分の意志で選択した人生哲学を保持してそれに基づいて生きる人々の所属する社会が個人主義の場合、相対的に持って生まれたものの影響が大きくなって自分勝手な振る舞いになりがちですが、この人々は自分の自然な考えの上位に自分の意志で選択した人生哲学を置いているので、無意識の領域の影響を軽減できます。つまり、有思想の個人主義(例えばアメリカ)は制御が効くので成熟した社会になりやすいですが、その思想が間違っていた場合は危うくなります。それが集団主義の場合、相対的に育った社会環境の影響を受けやすくなりますが、自分の自然な考えの上位に自分の意志で選択した人生哲学を置いているので、無意識の領域の影響を軽減できます。つまり、有思想の集団主義はその社会の倫理慣習と個人の思想哲学が似ていたら波風立ちませんが、違っていたらぶつかることになります。ゆえに、場合によっては個人にとって生きづらい社会になります。
現在の日本は無思想の集団主義で相対的に育った社会環境の影響を受けやすく、その無意識の領域の価値観が巾を利かすことになりますが、その社会の倫理慣習のレベルが高かったのでこれまで高い民度を示すことができました。しかし、これからの日本は個人主義化が進むと思われますので、無思想の個人主義ということになり、その場合、相対的に持って生まれたものの影響が大きくなって自分勝手な振る舞いになりがちで、その無意識の領域の価値観が巾を利かすことになります。そうなると制御が効かず殺伐とした社会になりかねません。昨今の非寛容な社会状況を見ていると、もうすでにその兆候が現れ始めてきています。
個人主義化が避けられない流れなら、無思想を何とかしなくてはなりませんが、有思想にシフトする鍵はイギリスにおける「ジェントルマン」のようなものを持てるかどうかにかかっています。タイタニック号沈没の際、女性と子供が優先で救命ボートに乗っています。パニックになってボートに殺到したら力の強い男性が有利になりますが、そうならず結果的に女性と子供の方が多く助かっているということは、こうした究極の場面でも英国紳士としての振る舞いができていたことになります。つまり、人間の本能を凌駕する思想哲学の保持が出来ていて、人間の自然な感情の上位に紳士としての振る舞いを置いていたことになります。
同じようなことがポトマック川でもありました。アメリカの飛行機が気温マイナス4度の厳寒の中、凍ったポトマック川に墜落しました。奇跡的に6名が何とか残骸にしがみついて生き残りましたが、岸まで遠く動けなくなっていました。冷たい水なので低体温症による命の危険があり30分が限界のところに、20分ほどして救助のヘリが到着してその中で一番緊急性が高いと思われる男性にロープを投げたが、それを他の女性に2回譲って自分は力尽き亡くなった人がいました。これも自分の命よりも紳士としての振る舞いを優先させたとしか言いようがありません。人間性のなせる限界を超えているからです。
西欧では、騎士道の流れを汲んで名誉を重んじる価値観があります。過去においては、侮辱を受けたというだけで決闘が行われ、どちらかが命を落とすといったことが日常の中で起こっていました。つまり、自分の命よりも自身の名誉の方を優先させていたことになります。日本の武士道でも「名こそ惜しけれ」で家名や自分の名前を穢すような恥ずかしい行いをしないという価値観がありました。それは時に命に及ぶこともありました。つまり、損得勘定ではなく誇りを持って自分の命よりも恥を嫌ったことになります。それは、西欧と日本で同じような価値観があったことを意味します。このことが、西欧列強の植民地化を日本が免れた要因の一つになったと見ることも出来ます。
現代においては、命に及ぶようなことはまずありませんが、そんな、一言でいろんな要素を含んだあるべき概念を、多くの人の間で共有されているものというのは貴重です。教科書で習う訳でもないのに、明らかに紳士ならこの場合はこうすべきという社会的に共有された認識が存在しています。日本の武士道も、武士としてどう振舞えばいいのかをいちいち覚えなくても、自分は武士であると自覚して行動するだけでよかった訳です。つまり、イギリスのジェントルマンのようなもの、かつての日本の武士道のようなものを持つか持たないか、自分の自然な考えの上位に自分の意志で選択した人生哲学を置くか置かないかが、有思想の個人主義の鍵になるといえます。
ただ、あくまで「ジェントルマンのようなもの」であって、“紳士”が目指すべき理想像かどうかとなると、それは又別の問題になります。米作家レイモンド・チャンドラーの名言で「強くなければ生きていけない。優しくなければ生きていく資格がない」というのがありますが、“紳士”には優しさと同時に強さも求められます。侮辱を受けているのに名誉を回復する行動をとらないというのは紳士のあるべき姿ではないので、“紳士”を理想像とした場合、ちょっとしたことで争いごとに発展してしまう危険があります。例えば、2022年に開催された第94回アカデミー賞授賞式の壇上で、ウィル・スミスが妻ジェイダの短髪をジョークにしたコメディアンのクリス・ロックに平手打ちをした殴打事件や、2023年のメジャーリーグにおいてガーディアンズのホセ・ラミレスとホワイトソックスのティム・アンダーソンの間で起こった乱闘事件がありましたが、無思想の日本人からしたら何でそんなことで暴力沙汰になるのか不思議に思うかもしれません。というのも、感情的になるにはちょっと動機が弱いように思えるからです。欧米においては、紳士という理想像がDNAレベルで存在しているので、感情よりも思想的なものを優先させたと推察できます。つまり、紳士における「侮辱を受けたら名誉を回復する行動をとらなくてはならない」という定言命法のようなものによって、いかなる状況においてもそれを優先させようとする動機が生じていたことになり、感情は押し殺せても、思想上のことは看過できなかったということになります。でなければ、メジャーリーグの公式戦やアカデミー賞の授賞式という公の場であそこまでの行為に及んだ理由が分かりません。騎士道の時代は、勇敢であることが求められ、臆病であることは低評価に繋がりました。その流れを汲む“紳士”ですから、当然勇敢であることが高評価の要件になってきます。しかし、名誉というものに価値を置き過ぎてしまうと、それを穢されたことが争いの名目になるし、それを傷つけられたままにしておくことが侮蔑の要因になります。それゆえ、紳士であろうとすればするほどむしろ争いごとを誘発してしまうので、目指すべき理想像(行動規範)とするにはちょっとリスクがあります。名誉と尊厳は違います。名誉という名の個人的なメンツやプライドというものは、周囲にどう見られるかという見栄の部分が大きいので、相対的な価値といえます。尊厳は、人間としての最低限の守るべき砦なので、絶対的な価値といえるかもしれません。名誉や栄光という名の虚栄心のために、他者を傷つけて独善的な正義を振りかざすのであれば、紳士というものが逆に社会の弊害になってしまうこともあるので注意が必要です。それは紳士の国イギリスが、同時にフーリガンの国でもあり、帝国主義の時代に植民地を作りまくって現地の人から搾取しまくった歴史を考えれば、紳士というものは決して聖人君子ではないし、階級的なにおいもする二面性を持ち合わせた概念であることが分かります。
こういうと、「それは男性の論理であって、女性の視点が入っていない」とお叱りを受けそうですが、それは女性の論理に疎い私の不勉強からくるものであって、決して女性を蔑ろにしている訳ではありません。ここで、紳士に合わせて淑女云々の話をしても説得力がないし、そもそもそんなしとやかな女性像というのは、男性側の「こうあってほしい」という願望であって、当の女性からしたら、自分らしくありたいとは思っても、無理してしとやかにしたいとは思っていないのかもしれません。その上で、価値観は多様化して、男性はこうあるべき女性はこうあるべきといったものに縛られないようになってきましたから、時代は、男らしさや女らしさを強要されるよりも“自分らしく”生きていける社会を求めています。そうであれば、目指すべき理想像は、男女関係なく人間としてどう生きるかという方向に行かざるを得ないでしょう。
AIと生きていく
昨今、人間の仕事にはより創造性や個性が求められるようになってきました(特に、クリエイティブ系ホワイトカラーの場合)。つまり、同じ風景、同じ情報に接してもそれに対しての感じ方、表現の仕方は人それぞれ違う訳で、それが個性になり差別化を図ることに繋がります。逆にいうと、誰でも出来ることをみんなと同じようにやるだけでは、いつでも替えが効くので容易にAIや他の人に取って代わられることになります。
人は、日常的に様々な情報や知識を自分の中にインプットして、そこに自分というフィルターを通して自分の考えを加味してアウトプットしています。インプットしたものをそのままアウトプットするだけでは、それこそコンピューターの独壇場ですから、そこに自分の考えを加味することにこそ、自分の存在意義が生じる源泉がありました。しかし、生成系対話型AIの出現によって、フェーズが明らかに変わりました。コンピューターに、膨大なデータの中からただ指示に合ったものをピックアップしてアウトプットさせるのではなく、そこにAIのフィルターを通してAIの考えを加味したものをアウトプットさせることができるようになりました。そうなると、ある課題に対して自分の代わりにAIが考えてくれて、何らかの答えをAIが出せるようになったという事になります。自分というフィルターを通して自分の考えを加味することにこそ、自分の存在意義があるのだとしたら、それもAIが出来るということになると、自分の存在意義が問われることになります。どこまで、自分のオリジナリティと価値を発出できるか。クリエイティブ系ホワイトカラーにおいては、AIのフィルターと自分のフィルターにおける創造性のガチンコ勝負になりますが、ルーチンワーク系ホワイトカラーにおいては、もはや勝負にならないかもしれません。AIに仕事を奪われる懸念が、現実味を帯びてきました。
当然、人間にしか出来なかった頭脳労働をAIが出来るとなれば、経営者はそちらにシフトしていくでしょう。なにせ、文句も言わず、賃上げ要求もされず、24時間働いてくれる訳ですから利用しない手はありません。重要な点は、その最初に指示をどちらが出し、最終判断をどちらがするのかという事です。人間が指示してAIに処理させ、最終判断は人間がするというのであれば、AIはあくまで単なる道具ですからそれほど大きな問題にはなりません。問題になるのは、AIが最初の指示を発し、自分で処理して最終判断も自分でしてしまう場合です。これは、AIが目的意識と自主性を持ったことになるので、人類の脅威となりえます。ゆえに、重要なのは最初の指示と最終判断は人間が行い、AIはあくまで道具という位置づけ以上にはしないことです。これなら、例えAIを悪用して悪事を働く不届きものが出てきても、その悪人を検挙して罰すればいいだけです。もし、AIが道具という位置づけ以上の存在になって、意志を持って人類に反抗してきたら、それこそ映画のような人類との全面戦争になってしまいますから、どこまでいってもAIには、目的意識と自主性を持たせないことです。逆に言えば、AIを道具として使い続けていきたいなら、それを使う人間の側に正しい目的意識と自主性、そして正しい選択基準を持つことが求められます。というのも、それを持っていることが、人間の優位性を保つ重要な要件になるからです。さらに、それなりの考える力も求められますから、それらを得る不断の努力が必要になります。それを怠り、人間にはAIを使いこなす資格なしとなってしまったら、それこそAIの暴走が現実のものとなるかもしれません。
基礎土台の重要性
明治維新の時は、それまでの徳川幕府を否定して身分制度や藩を無くし、武士から刀を取り上げましたが、それでも完全に西洋化するのではなく、日本の文化をうまく残しながらいい所を取り入れていました。それに対して戦後は、更地になって一旦リセットされた状態からの出発でしたから、精神的な空白が生まれました。その空隙に“アメリカ”が入ってきて日本社会に浸透していきました。しかし、社会の制度や物質的なものはアメリカナイズされたかもしれませんが、精神的なものは依然として空白のままでした。それでも、高度経済成長からバブル期まではその勢いで何とかなりましたが、バブルが崩壊して価値観が多様化して、「さあ、自分で考えて自分で選択して。」という段になった時に、はたと困り、そして気づきました。自分には依って立つ所の何ものも持っていないことに。
アメリカの選挙において、アーティストや俳優が特定の候補や政党を名指しで支持を表明しますが、なぜ、日本でそれが出来ないのでしょうか。(法的には可能でも事実上出来ていない)アメリカは、個人がそれぞれ意見を持っていてそれを尊重しているので、芸能人が発言して大きな影響を及ぼしたとしても、それを聞いてどう判断するかは個人に委ねられており、それで判断を間違えてあらぬ方向に向かったとしても、それが個人の意見を集約した結果であればしかたないと諦めがついているのでしょう。なので、トランプのような大統領が誕生するし、誕生しても正当な手続きを経たのであればそれを受け入れる準備が出来ているという事なのだと思います。日本でそれが出来ないということは、まだまだ“個人”が成熟しておらず、権威に弱く周囲に流されやすい傾向があるので、その状況で芸能人が政治的発言をしたら、そちらに引っ張られて支持政党や世論が動いていき、場合によってはあらぬ方向に社会が向かってしまう危険があるということなのでしょう。たとえそうなっても個人の意見を尊重するという土壌が醸成されているなら、又違った対応になっているはずです。
日本人は、無思想と言われます。司馬遼太郎は著作の中で「思想的民族というのが、世界にはふんだんにいる。しかしながら日本人は、それに入っていない。日本人は思想がゼロなのではないかといわれる。が、私にはどうもそうではなく、無思想という思想が日本人の底の奥にあるのではないかと思う。」と書いています。つまり、これというものを持たずに柔軟に多様な価値観を受け入れるという“思想”があると。しかしそれは、裏を返せば、自分というものが無く、ゆえに全体の空気に流されやすく、行き詰った時に立ち返るべき原点を持たないことを意味しているともいえます。調査によると「日本人の7割以上が信仰や信心を持っていないと公言している」(統計数理研究所「国民性調査」2013年)「信仰している宗教はない」が
62%(NHK放送文化研究所「ISSP国際比較調査」2019年)という結果も出ています。又、政党支持率では「特に支持している政党はない」が45.0%もありました。(NHK世論調査2024年1月)それを裏付けるように、正月には神社で初詣をし、クリスマスはケーキとチキンで祝い、秋祭りは町ぐるみで参加して、葬式や法事はお寺でして、結婚式は教会でといった具合で、「いや、そこが八百万の神々の国と一神教の国との文化の違いだ」と言われればそうかもしれませんが、節操がないのは否めません。さらに歴史的にみても、戦国時代が終わって徳川の世になったとなれば士農工商の身分制度を受け入れ、明治維新で開国してさあ近代化だとなれば国民こぞってそちらに傾き、昭和に入って国を挙げて戦争だとなれば国民こぞってそちらに傾き、戦後、今度は経済だとなれば雪崩を打ってそちらに傾倒する。どれも中途半端ではなくとことん行き着くところまでいってしまっているので、何とも振れ幅が大きい極端な国民性にも思えますが、というよりも、これというものを持っていないので、何色にも染まることができ、時代の流れに国民ごと流されてしまっているようにも思えます。それがいい方向に向かった時には大きく発展できますが、悪い方向に向かった時は坂道を転げ落ちてしまう危うさがあります。その後、形の上では高度経済成長期を経て経済大国になりましたが、引き続きベースとなるものを持ち合わせていないので、危うい状況に変わりはありません。
喧嘩を目撃したらどうするかというケースで、日本人は見て見ぬふりをして、アメリカ人は仲裁に入る傾向があるという見方があります。日本だと、自分の内側としている範囲が狭いので外側の煩わしいことに関わりたくないという意識が働き、アメリカだと、自分の内側としている範囲が広いので自分に出来る範囲で積極的に関わっていこうとします。さらにここで、思想の有無が影響してきます。無思想の日本では、見返りがなくてリスクが高い行為をやろうという気になりにくいですが、有思想のアメリカでは思想的にそれをやる動機があります。キリスト教しかりジェントルマンやヒーローの理想像もしかりです。そこが基礎土台の違いです。日本人は親切で礼儀正しいというのは事実ですが、それは自分に害が及ばない範囲のことであって、リスクを伴う危険があるとなったら途端に関わらないようになります。それが無思想の限界です。そこを越えて行動するとなると、何らかの思想哲学が必要になります。
これというものを持っていないことの弊害はいろいろあって、昨今においても人心の荒廃と意欲の低下といった様々な問題が噴出してきています。これまでにも犯罪はありましたが、近年の事件を見ていると日本人の何かが壊れ始めていると感じるのは私一人ではないと思います。又、意欲の低下も深刻です。ここまで見てきて感じるのは如何に基礎土台が大事かということです。例えば、建築においては、地盤と基礎がしっかりしていないとその上にどんな立派な建物を建ててもやがて傾いてしまいますし、音楽においても、ドラムとベースからなるリズム隊がしっかりしていないと、その上に乗っかるギター・キーボード・ボーカルがどんなに上手くてもいいパフォーマンスを発揮出来ないものです。
では、その基礎土台の中身はどのようなものなのでしょうか。私なりに考えてみますと、人生の基礎土台としては、まず、心と身体に分けることが出来ますが、身体については、体を使う分野以外の人はバランスの取れた食事と適度な運動ぐらいしか出来ないので、ここでは心に限定することにします。心といっても様々な要素がありますが、ここでは価値観という視点で見ていきたいと思います。人が持っている価値観には、「無意識の領域」と「意識の領域」があって、無意識の領域には、「持ってうまれたもの」と「育った環境の中で影響を受けたもの」があり、意識の領域には、「自分の自然な考え」と「自分の意志で選択した人生哲学」があります。広義においてはこの全てが基礎土台となるのですが、狭義においては自分の意志で選択した人生哲学がそれになります。ここでベースとなるものを持っていないと言っているのは、自分の意志で選択した人生哲学を持っていないということを意味しています。なので、基礎土台は鍛えるというよりも把握・選択してそれを固めていくといったほうがしっくりきます。ゆえに、まずは「自分の基礎土台部分がどうなっているのか」又、それを基にして「何処に向かおうとしているのか」といったことを把握・選択しておく必要があります。というのも、そこが曖昧になっているといい将来の選択が出来ないし、結果として満足の人生に繋がらないからです。要するに、基礎土台を固める作業というのは、「無意識の領域の価値観」を把握して「意識の領域の価値観」を選択する作業ということになります。
※ここで、人生哲学という表現を使っていることについて少し説明したいと思います。それは、日本の事情によります。人生の基礎土台の、さらにベースとなる部分の世界標準は“宗教”なので、日本(中国)以外なら「宗教」と書けばいいところですが、日本は無宗教と呼ばれるほどの国ですから、人生の基礎土台としてそこに宗教を置くことはハードルが高くなっています。それゆえの大きく包含した意味での思想哲学ということですのでご理解下さい。
第三章 ではどう生きる?
フィルターを磨く
様々な情報や知識をインプットして、自分というフィルターを通して、そこに付加価値を加味してアウトプットする。そのアウトプットの内容によっては、人類の幸福に大きく貢献することもできます。そうなると、そのフィルターの如何によってアウトプットされる内容が左右されるので、いかに自分の持っているフィルターをより良いものにして、高付加価値のものを加味していけるかがポイントになるし、どのようなフィルターを持っているかが問われることになります。
もちろん、インプットしたものを正確にアウトプットする訓練は大事です。ただ、知識の習得に重きを置きすぎると、コミュニケーション力や思考力といったAI時代に欠かせない能力が置き去りにされることもあるので注意が必要です。インプットしたものをそのままアウトプットするだけならAIの方が得意だし自分でなくてもいいので、何時でも替えがきく存在になってしまうことにもなりかねません。ゆえに、自分の持つフィルターに多様な要素を加味していくことが重要で、入ったものをそのまま出すのではなく、自分というフィルターを通して色々と組み合わせながら、アレンジや加工を加えて出していくところに付加価値が生まれる要因があります。これが個性やオリジナリティに繋がっていくことになります。どんな創造性豊かな天才でも、まったくの無から有を生み出しているわけではなく、それは多くの場合、既存のものの組み合わせや解釈の変更若しくはその飛躍によって生み出されています。つまり、初めは誰でも模倣から始めて、そこに工夫を加えていっている訳です。その工夫の役割を担っているのが、フィルターです。ここの如何によって、どれだけ付加価値の高いアウトプットが出来るかが決まります。ゆえに、このフィルターを豊かにしていくことが大事になります。
軸となる判断基準を持つ
前項の図では、このフィルターに照会して返答をもらいながら最終的にアウトプットの判断を下している部分を、「物事を判断する主体」としました。フィルターは常に外部の情報に晒されて流動的になっていますから、その時の社会情勢や支持している思想哲学によっては、時に逸脱したものを返答してしまうこともあります。そのフィルターの返答に対して取捨選択できる最終関門が「物事を判断する主体」ですから、そこがまったく機能しなかったら、結果的に満足のいく選択にならない可能性が大きくなります。
では、ここを機能させるにはどうしたらいいのか。まったくの無の状態だとスルーしてしまう訳ですから、まずはここに自分の本質と目指す方向性を合わせた「軸となる判断基準」を置いて、そこから自分の自然な考えと思想哲学の二方向をコントロールしながら人生の歩みを進め、経験値を上げつつ随時自分に合ったもの、自分が良いと思ったものを取り入れていくのがいいように思います。つまり、フィルターをどんなに磨いていっても、最終判断するところに自分に合った判断基準が無かったら、機能しない可能性が高いので、まずは「軸となる判断基準」を持つことが重要になると考えます。
自分にとっての満足を何処に求めるかを選択する
・ 人生の目的である幸福になる為に何処まで社会に関わっていくか。(内と外の境界線を何処に引くか)
・ 自分が考えたものよりひと回り外側を選択すれば、思想的なものを補完して人間修養の修行的な意味合いを持たせることが出来る。
流れを構築する
万物は流れていて、それが滞るといろんなところで支障が出てきます。血の流れが滞れば様々な病気に繋がりますし、お金の流れが滞れば会社が行き詰まります。人生においても「流れ」というものがあり、それが滞れば様々な歪を引き起こすことになります。
現代は、生きづらい息の詰まる世の中になっています。それは、意欲の低下や不登校・ひきこもりの増加、SNSでの目に余る誹謗中傷を見ても分かります。その要因は何か。もちろん、様々な要因が複合的に絡み合ってはいますが、その一つに流れの喪失があります。やはり、何かに向かっているという感覚が物語としての流れを生み、それがあれば困難があってもその文脈の中で位置づける事が出来るので頑張れますが、それが無ければその意味を失う事になります。かつての高度経済成長期には、社会が提供する大きな流れがあって、個人はそれに乗っかることで意欲を持って人生を歩むことができました。(社会・時代の奔流と個人の流れがリンクしていた時代)現在では、そのようなものを殊更に社会が提供しなくなったので、個人がそれぞれ自分にとっての大きな流れを構築しなくてはならなくなりました。(社会・時代は流れていますが、そこに個人が殊更コミットせず己の道をいく時代)
意欲が低下しているということは、それがうまくいっていないことを表しています。つまり、「自分は何を目指して生きているのか」「自分の人生の目的は何なのか」といった事を、個々人で考えないと意欲を維持できない時代になったといえます。健康な人に薬は不要ですが、病気になったら薬が必要になります。同じように、流れをうまく作れない人にはそれを助けるものがあれば有効です。
「ただ生きる」と「良く活きる」
世の中には4段階の人間がいます。あなたの現在地は、何処ですか?
A 生きながら死んでいる(不本意な人生を歩んでいて半ば諦めている)
B ただ生きている(可もなく不可もなく惰性で生きている)
C 活きている(自分らしく生きて輝いている)
D 良く活きている(その上で他者の幸福に貢献している)
あなたは、今生きています。しかし、それは本当に“生きている”と言えるでしょうか。もし現在、不本意な人生を送っていると感じているなら、少なくとも“活きている”とは言えないでしょう。生物学的には、確かに生きているのだとしても、その人自身の実感として自分の生を生きていないのなら、それは「生きながらの死」と言っても過言ではありません。医師は、その技術を使って心身を正常な状態に戻してくれますが、その健康な体を使ってどのような生を生きるかはまた別の問題になります。心身が健康であっても「生きながらの死」という現象は起こるからです。会社に勤めていても社畜状態であれば、“活きている”とは言えないでしょう。不本意な生を生きている人のことをそう呼ぶのであれば、日本人の大半はこの状態にあるといえます。それは、従業員のやる気ランキングが、熱意がある約6%、出世したい約20%で139カ国中132位(2017年ギャラップ社調べ)。時間当たりの労働生産性は、主要7カ国中最下位(2019年日本生産性本部調べ)という結果を見ても明らかです。世の中で、自分に合った、自分らしい、自分のやるべきことを十二分にやれていて、後悔のない満足の人生を送れている人がいったいどれだけいるだろう。不本意ながら仕方なく生きていて、本当に生きていると言えるのだろうか。
では、そもそもなぜそんなことが起こっているのか。その要因の一つに、自分というものがよく分かっていない状態で人生の歩みを進めていることが挙げられます。病気の治療でいえば、病名がよく分かっていない状態で治療を進めているようなものです。まずは正確な検査と診断が必要で、病名を間違えた状態で治療を進めても、良くなるどころかかえって悪くなる場合があります。その状況は、見知らぬ山で道に迷っているともいえます。山で道に迷ったら闇雲に歩き回るのではなく、まずは自分の現在地が分かる所まで引き返して、そこから改めて目的地を確認する必要があります。
何が言いたいかというと、誰でもただ生きているだけというよりも、自分らしく活き活きと輝いている方がいいだろうし、更に、ただ自分だけ活き活きと輝いているよりも、誰かの役に立って喜んでもらえている方がいいのではないかということです。つまり、ただ生きるよりも「活きる」、ただ活きるよりも「良く活きる」ほうがいいのではないかということです。「活きる」には、自分の本質と目指す方向性、即ち、自分は“何者”で何処に向かって生きていこうとしているのかを把握しておく必要がありますし、そこに「良く」を付け加えるとなると、自分の自然な考えの上位に「自分の意志で選択した人生哲学」、即ち、目指す理想像を置く必要が出てきます。自分らしさを追求した先に「活きる」があり、理想を追求した先に「良く」がありますが、これは時に相反する要素であり、どちらかに偏り過ぎても満足の人生になりにくいのでそのバランスが大事になります。見てきたように、良く活きる為のプランを設定することが、流れの構築に繋がる訳ですが、それが容易なことではないからこそ、ほとんどの人がただ生きることを余儀なくされている訳です。
アナと雪の女王という映画で、姉のエルサは、魔法の力をコントロールできず自分を押し殺して生きてきましたが、妹のアナとの口論をきっかけにして、自分を開放してありのまま自由に生きることになり、そこに喜びを感じます。それは、西欧の個人主義の価値観でもあります。しかし、エルサの魔法の力によって王国は氷に閉ざされることになります。これは、個人がありのまま生きることで、社会の迷惑になることもあるということを表しているように思います。そして、最終的には、アナの献身的な行為にエルサの中にある相手を思いやる愛の力が目覚め、それが魔法をコントロールする術となり、氷を溶かし夏が復活してめでたしめでたしとなります。それは、個人主義というのは個人個人がありのまま自由に生きるだけでは成り立たず、持って生まれたものをコントロールする術を持つことが重要で、そのことによって、自分らしく自由に生きることと、潤いある社会が両立できることを表しているように思います。ここでいえば、個人が自分らしく「活きる」ことと、そこに社会の一員として「良く」を付け加えることに繋がります。
ソクラテスは「一番大切なことは、単に生きることではなく、善く生きることである。」といいました。善くというのは哲学における「真」「善」「美」の中の「善」の部分であって、これは人によって異なるような相対的なものではなく、普遍的且つ絶対的な価値観を指しています。つまり、ソクラテスの「善く生きる」は、人によって異なる生き方というよりも、万人が目指すべき理想の生き方を指しているので絶対的なものになります。それに対してここでは「良く」という字を使っていますが、これは自分で選択するという意味において相対的ですし、「活きる」にも自分らしくという意味が含まれているので相対的なものになっています。つまり、これは絶対的真理を発見したからそこを目指せと言っているのではなく、自分を把握して社会とどこまで関わっていくかを自分で選択するという意味で相対的なものになっているということです。
第一章で人生の目的は「幸福」で、それは「満足」と言い換えることも出来ると書きました。満足の人生の捉え方は人によって様々ですが、一つ言えるのは、「活きた人生」でないと満足の人生にはならないのではないか。さらに、自分のことだけの人生では、本当の意味での満足は得られないので、そこに良くを付けての「良く活きた人生」でないと真の満足の人生にはならないのではないかということです。そうだとすると、人生の目的である「幸福」を「良く活きる」と言い換えることも出来ます。つまり、人は良く活きる為に生きているのだと。そこを基準にすると、現状の是非は、良く活きれているかどうか、将来の選択は、これをやったら良く活きれるのかどうかが判断基準になってきます。良く活きることが幸福に繋がるとすると、現状がそうなっていないのなら見直しの時期にきていることになりますし、将来そうなりそうにないならその選択は再考が必要になるということになります。ただ、それを念じて闇雲に生きるだけでは絵に描いた餅になってしまうので、どうすればそれが実現できるかを理解・把握して良く活きる為のプランを設定し、それを実践していくことが重要になります。
おわりに
現在の日本社会は、そもそも夢を持ちにくい構造になっているし、持てたとしてもそう簡単には実現できないことを考えると、大半の人が夢を叶えていない現状にあるといえます。問題は、そんな夢がなかなか実現しない状況で、それを諦めるのかそれとも叶うまでやり続けるのかということです。売れない芸人が諦めてサラリーマンになるというテレビ番組があると、視聴者の受け止めとして「それでいいの?」とか「遅いぐらいや」といった反応があると思います。漫画スラムダンクで安西先生の「あきらめたらそこで試合終了ですよ」という名言がありますし、多くの成功者が口をそろえて「成功の秘訣は成功するまでやり続けること」と言っています。一方で「人間、諦めが肝心」という言葉もあります。いったいどちらが正しいのか。この場合どちらが正しいというよりも、その内容によって判断が違ってくるということです。それが人生の目的に近いものなら簡単には諦められないし、それが単なる手段に過ぎないものなら一旦リセットしてやり方を変えるのも全然有りということになります。芸人の例でいえば、芸人で売れることが人生の目的なら簡単に諦めるべきではないし、芸人で売れることは「人を笑わせて元気にしたい」という目的の手段に過ぎないなら、芸人に固執しないで別のやり方を試してみてもいい事になります。重要なのは、それが目的なのか手段なのかを正しく把握しているという事です。その為には、軸となる判断基準を持っていることが大事となります。
人間というのは、基本的に利己的な存在といえますが、それは単純に自分のことだけやっていれば満足というものではなく、誰かの役に立って、誰かに喜んでもらえて、社会から能力・成果に応じて正当に評価される時、強く幸福を感じる側面もあるやっかいものです。つまり、社会的動物であると。ゆえに、その人の所属している社会から強く影響を受けることになります。ただ、持って生まれた本能や性分といったものの力も強力ですから、本音の部分には、○○したい、若しくは○○したくない、という自然な感情が湧いてきます。社会の現実と個人の欲求の狭間で葛藤が生じる訳ですが、大抵は現実的に判断して仕方なく○○するということになるのが大半です。本音と現実にギャップがあって仕方なくやっているというのでは、ストレスが溜まるし、モチベーションも上がらないでしょう。
人生においては、特に“何かに向かっている”という物語が流れている感覚が重要で、それが無いと、ただ一日一日が楽しい苦しいで過ぎていくだけになってしまいます。もちろん、その日その日が楽しければいいという生き方もありますが、楽しいだけという事はありえないので当然苦しいことも出てきます。流れがあれば苦しくてもその文脈の中で位置づけることが出来るので頑張れますが、それが無ければ頑張る意味を見出せません。つまり、モチベーションが保てなくなってくる訳です。その物語の大筋の脚本について、これまでなら特に自分で設定しなくても、社会から提供される雛型に沿って歩いていけばよかったのですが、もうそんな時代でもないので、自分で書かなくてはならなくなりました。しかし、そういうことに慣れていなくてうまく書けない人も少なくありません。単なる手段を目的と勘違いして一喜一憂している場合もあります。日本のように、集団主義から個人主義への移行が始まっていると思われる社会では、この“何か”を自分で見つけることが喫緊の課題となっています。
さて、個人主義となると個々人で何らかの思想哲学を保持することが求められます。しかし、思想哲学は玉石混淆で善悪が入り乱れているので、その取捨選択は容易ではありません。故にまずは、自分にとっての満足を何処に求めるか、つまり、人生の目的である幸福になる為に何処まで社会と関わっていくかを選択する所から始めるのがいいように思います。その際、自分が考えたものよりひと回り外側を選択すれば、思想的なものを補完して人間修養の修行的な意味合いを持たせることが出来ます。というのも、思想哲学といっても結局は個人と社会の関係性に集約されるし、個の時代においては、個人において何らかの修行的なものが必要になってくると考えるからです。例えば、弁護士という職業(手段)を通して人の役に立つ(目的)というのをひと回り外側の求める満足とした場合、弁護士として努力することがある種の思想を体現し、それがそのまま修行になっているということです。
自分が食べて寝ることによって生み出されるエネルギーを何処にぶつけるのか、何に向かって使うのか。結局はそれで人生が決まるような気がします。同じ生きるなら、後悔のない満足の人生を歩みたい。しかし、ややもすると無為に日を過ごしてしまい、気が付いたらもう人生の終盤という事もなきにしもあらずです。その時になって、あの時こうしておけば良かったと後悔しても時間を巻き戻す事は出来ません。なので、できれば若いうちに「自分はどう生きればいいのか」といった問いに向き合い、何らかの答えを出して一歩踏み出していけば、たとえそれがうまくいかなかったとしても、後悔は少ないのではないかと思います。
この冊子は、別にご用意しているプログラム「モチベーションの木」の理論的根拠としての役割も担っています。つまり、なぜ今「モチベーションの木」なのかの説明書的な位置づけにもなっている訳です。この冊子の最終章で「良く活きる為のプランを設定しそれを実践していくことが重要になる」と書きましたが、その良く活きる為のプランが「モチベーションの木」ということになります。この冊子を手に取ったのも何かの縁、このまま読んだだけで終わらせず、ぜひ「モチベーションの木」を体験してみて下さい。
初版 2022年1月10日
著者 本母茂樹
※簡易な冊子の形態にはなっていますが、無断での複写・転載を禁止します。但し、出典を明記した上での引用についてはその限りではありません。