目次
どこで内側と外側の境界線を引くか
野生動物は、内と外の境界線をどこで引いているのだろう。彼らが内と判断しているものは基本的に必死に守るのでそれを基準に考察してみたい。まず、個体としての自身の体から始まって、家族までは内側と考えられる。集団を形成していればその仲間まで入る。物理的な範囲としては、棲家、縄張りまでが内に入るだろう。つまり、いっしょに生活している仲間とその生活エリアである縄張りまでが内でそのまわりが外ということになる。その外から内に対して侵害があれば必死に守るわけだ。ここまでは、人間も同じかもしれない。しかし、人間は社会的且つ概念が理解できる動物なので、その範囲はさらに拡がっていく。人によっては所属する会社も内に入ってくるし、所属する国家も内に入ってくる。この内と外の概念は重要で、まずその境界線をどこに引くかによって守る範囲が決定する。次にその外となったものとどう付き合うかという問題が出てくる。つまり、自分と相手という相対関係が内と外で発生するわけだ。外が攻めてくれば内は守るし友好的に接してくれば友好的に振舞う。つまり、外の相手が内であるこちらの利益になれば受け入れ、害するようなら排除するという関係が内と外で発生することになる。
ゆえに、どこで内と外の線引きをするかがその人の価値観になってくる。それが家族の人もいれば国の人もいる。その範囲が広い分だけ社会への貢献度も広がっていくが、守る範囲が広がる分外側との軋轢も大きくなる。資本主義社会は競争社会であり、外側は基本競争相手になっていてしのぎを削っているし、そもそも、弱肉強食は自然の摂理なので、自然に任せたら殺伐とした社会になりやすい。ゆえに、そこは人間としての理性を発揮して、自分の自然な考えの上位に自分の意志で選択した人生哲学を置き、野生動物との格の違いを見せつけたいところだ。
チャップリンの名言で「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄になる。」(映画「殺人狂時代」より)というのがある。ドストエフスキーの「罪と罰」でも同様の記述があるが、もちろん、これはそんな社会を揶揄して言っているわけで、ナポレオン時代の追憶ではなく現代でもあてはまる普遍性を持っているという点で含蓄がある。内側の幸福の為に外側を犠牲にするという行為が行われた場合、外側の人にとっては悪行以外の何物でもないが、内側の人にとっては善行になるということが起こりえる。(だから英雄扱いされる)それを行った個人にとっては、自分が内側と考える人々の為に行った利他の行為であり公の為に行動した結果でもある。この論理がまかり通れば、戦争に至るハードルを下げてしまうことになる。ゆえに、それが個人であれ国家であれ、自己(自国)の利益の為に他者(他国)を犠牲にすれば、それはすべて悪ということで統一しておく必要があるだろう。
今ここに生きている奇跡
自分が今ここに存在できていること自体、どれほど幸運で奇跡的なことか。それは、決してあたりまえのことではない。ここでは、眞 淳平著「人類が生まれるための12の偶然」を参考にしながらちょっと考えてみたい。
幸運1 太陽からの距離がちょうどよかった
もし、地球が今よりもう少し太陽に近かったら、暑すぎて且つ水が蒸発して生物が生存できなかった。
もし、地球が今よりもう少し太陽から遠かったら、寒すぎて且つ水が凍ってしまうので生物が生存しにくかった。
幸運2 木星、土星という2つの巨大な惑星があった
もし、太陽系に隕石を引き寄せる木星と土星がなかったら、地球に隕石の衝突が頻繁に起こって生物が生存しにくかった。
幸運3 地球が適度な大きさだった
もし、地球が今よりもう少し小さかったら、大気が宇宙に逃げてしまっていた。
幸運4 地球に地磁気があった
もし、地球に磁場が無かったら危険な放射線にさらされて生物が生存しにくかった。
幸運5 地球にオゾン層があった
もし、地球にオゾン層がなかったら強力な紫外線にさらされて生物が生存しにくかった。
幸運6 地球に豊富な液体の水が存在した
もし、地球に水がなかったら生物が生存しにくかった。
幸運7 地球に生命が誕生した
もし、地球に生命が誕生しなかったら、(誕生の確立は 1040,000分の1)人類も生まれていない。
幸運8 生物の大絶滅が何度も起きた
もし、それが起きなかったら、人類も生まれなかったかもしれない。
幸運9 定住と農業を始める時期に地球が温暖で安定した気候になってきた
もし、寒冷なままだったら、人類の発展も大きく遅れた。
ちょうどいい位置と大きさの地球が誕生して、そこには水や空気があって、その中で生命が誕生して、それが進化して人類までたどり着くことができる確率は、天文学的な低さであって奇跡というレベルではなく、限りなくゼロに近い現実的には起こりえないレベルのものだという。それぞれの数値が絶妙な値になっていて、偶然そうなったというにはあまりにもピンポイント過ぎるので、誰か(神)の意志が働いて意図的に作られたのではないかという説まである。しかし、そんなことをあれこれ詮索するよりも、この奇跡の星地球に生まれてその太陽や自然を享受できることが、どれほど幸運なことなのか、心臓を動かし呼吸をすることで生じている生の時間というものがどれほど貴重なものなのかということを理解して、その恵まれた生の時間をどう使うかの方に労力を傾注すべきだろう。
人間として生まれてくること自体が奇跡だが、長い人類史においては、その大半が戦乱の世であったり、貧困の極みであったりで、普通に安心して生活できる環境に生まれてくることは、さらに奇跡といえる。現代においても、世界では紛争や貧困が蔓延しており、比較的平和で繁栄した日本という国に生まれてきたということは、そうとう恵まれている部類に入るだろう。つまり、今ここに存在できているということ自体、奇跡という言葉では言い表せないほど幸運中の幸運といえる訳で、それを考えたら目の前のイジメやパワハラがいかに卑小なものか、それをやっている者がいかに取るに足らないものかということが理解できるのではないか。ただ、せっかく恵まれた環境に生まれてきているのに、当の本人は、不幸のどん底だと思っていたりする。それはもったいない。この時代、日本という恵まれた環境の中で、せっかく奇跡的に人間として生まれてきて、自分にとっての満足の人生を生きれる機会と能力があるのにそれを成しえていないとしたらもったいなさ過ぎる。世の中には、そうした人生を生きたいと思っても生きられない人が大勢いるのだから。
おぎゃあと生まれて自分の知らないところで人生がスタートして、物心がついておぼろげながら自分の存在を意識した所から実質的な人生が始まって、その後は、概ね社会の流れに任せて言われた通り学校へ行き、親の期待を背負って会社に就職する。一見自分で選択してきたように見えてその実、社会から大きく影響を受けた無意識の領域によって導かれてきた惰性の人生。そんな、ただ生きてただ生活をするだけの人生は嫌だと心の自分が叫ぶ。アンパンマンのマーチの歌詞に「何のために生まれて 何をして生きるのか 答えられないなんて そんなのは嫌だ!」「何が君の幸せ 何をして喜ぶ わからないまま終わる そんなのは嫌だ!」とあるが、他人の引いたレールの上を落ちないように歩くだけの人生ではなく、自分が選択した自分の人生を生きたいというのは内なる心の叫びだろう。ただこれも、そんな選択すら許されない過酷な運命を背負った人からすれば、心身共に健康で平均寿命までは生きるであろう人の贅沢な悩みでしかない。生きたくても生きることが出来なかった無数の人に対して、私たちは恥じることのない人生を生きているだろうか。ここで、難病「脊髄小脳変性症」と戦い、25歳の若さで亡くなった少女の記録である「1リットルの涙
-難病と闘い続ける少女亜也の日記-著者 木藤亜也」という本の一部を抜粋して紹介したい。「障害者という重い荷物を、ひとりでしょって生きていきます。こう決断を自分に下すのに、少なくとも、1リットルの涙が必要だったし、これからはもっともっといると思います。」「もうあの日にかえりたいなんて言いません。今の自分を認めて生きていきます。」「人間だけが欲張って余分に生きようとするって。やっぱり欲張りかな?無理に生きようとするのは、間違ってるかな?」「お母さん、私は何の為に生きているの?」「病気は、どうして私を選んだのだろう。運命なんていう言葉ではかたずけられないよ。」「過去を思い出すと、涙が出てきて困る。現実があまりにも残酷で、きびしすぎて、夢さえ与えてくれない。将来を想像すると、また別の涙が流れる。」「どんなに泣いても病気から逃げられないし、過去に戻りたくても時間を戻せないし、だったら自分で、今の自分を好きになってあげなくっちゃって、そう思いました。」「胸に手を当てる。ドキドキ音がする。うれしいな、あたしは生きている。」
仕事とお金について
一郎 「なぜ仕事をするのかって?お金を稼ぐ為に決まっているだろう。人の為だの夢の実現だのというのは単なるきれい事さ。」
哲夫 「どうしてお金を稼ぐ必要があるんだい。」
一郎 「つまらん質問するな。お金が無くちゃ食べるものも買えない、着る服も買えない、住む家も持てない。それじゃ生きていけないだろう。」
哲夫 「生きていく為にお金が必要ってこと?」
一郎 「物々交換の原始時代じゃないんだぜ。まあ、その辺の認識の薄いやつが増えてきたってのはあるけど、お金をどれだけ持っているかで人生がまるで違ったものになるんだ。」
哲夫 「多い方が幸福って事?」
一郎 「そりゃそうさ。貧乏だと、ただ生きているってだけの味気ない生活さ。金があれば、豊かで快適な生活をエンジョイできる。誰だって、金持ちになりたいと思うさ。」
哲夫 「いい生活をしたいからがんばって働くって事?」
一郎 「そりゃそうだろう。お金が山ほどあって、働かなくていいなら誰もつらい仕事なんてやらないよ。」
哲夫 「仕事はつらい?」
一郎 「つらく無い仕事なんてこの世にあるのかね。なんで休みが近づくと嬉しい気分になるんだ?どうして月曜の朝はブルーになるんだ?それだけ仕事がつらいという事さ。」
哲夫 「つまり、仕事はつらいが、生きていく為、いい生活をする為にいやいやながらやっているって事?」
一郎 「うーん。まあ、本当にいやで辛過ぎれば、転職するけどね。多少、楽しいと思える部分もないと永続きは難しいよね。」
哲夫 「どこかで折り合いをつけながらやっているって感じ?」
一郎 「そうそう。バランス感覚ってやつかな。お金を稼ぐ為にストレス溜まることいっぱいやって、そのストレスを解消する為にその稼いだ金をつぎ込んで行く。一見、矛盾しているようにみえて、そうやってお金が回っていくシステムになっているんだ。」
哲夫 「なんか、金の為に生きているみたいでいやな世の中だね。」
一郎 「まあ、お金というのは人間の欲望を叶えてくれる打出の小槌みたいなものかな。お金と欲望はセットになっていて、人間である以上、欲望は死ぬまでついてまわるものだから、お金への執着も死ぬまでついてまわるということさ。」
哲夫 「そのお金を稼ぐ手段が仕事ということだね。」
一郎 「そういう事。」
哲夫 「そうすると、お金を稼げるならいやな仕事でも我慢してできる原動力は欲望ということになるね。」
一郎 「そうだね。欲望は個人的なものだけど、守るべき家族がいれば、家族の為というのもあるかな。」
哲夫 「この理論でいくと、ニートにも当然欲望があるわけで、それに必要なお金を得る為に我慢して働くという理屈があてはまると思うんだけど、働けない人は別にして、どうして働かないんだろう。」
一郎 「そうだな。俺なんかからみれば、甘えているとしか思えないけど。」
哲夫 「僕は少しだけどわかる気がする。日本人の意欲が低下してきているのは、これまでのモチベーションの源泉であった「~ねばならない」という義務意識が弱まってきているのに、それに代わる“欲”と“目標”つまり、「何かを手にしたい」「何かに向かっている」という感覚を持ちにくくなっていることが大きく影響していて、これまでは「これが幸福な人生というやつですよ」という社会が提供する大きな流れがあって、個人はごちゃごちゃ考えなくてもその流れに乗っかるだけでよかった。だけど今は、多くの選択肢の中から、個々人が自分の責任で、自分の生き方を模索し、自分の人生の流れを自分で作らなければならなくなった。「さあ、個人個人自由に生きて下さい。」と言われると逆に困るんだよね。それがうまくいかなくて、自分に合った道を見つけられなかった人が、ニートと呼ばれてドロップアウトしていくのは必然って気がしますね。」
一郎 「え?じゃあ、しょうがないってことで放置しちゃうの。」
哲夫 「引きこもりは、何らかの支援が必要になるけど、働く場所があって働けるのに働かない人は、<自分に合った道>じゃない仕事を我慢してまでやりたくない人たちなわけでしょ。一本筋が通っている面もあるわけだから、本人の好きなようにすればいいと思いますね。むしろ、思考停止の時代から、個人個人が考える時代に入ったと捉えれば悪い面ばかりとも思えませんね。」
一郎 「楽観的だね。」
哲夫 「本能=欲望は必ずお金を要求しますから。入手が困難になれば、犯罪は論外として、主義主張に関係なく、いやな仕事でもやるようになりますから。もちろん、中にはそれが出来なくて引きこもる人もいるけど、それは心身に良くないので早めに専門家に相談したほうがいいね。でも、ニートがどうこうっていうのも結局、労働者不足に加え、年金や税金等の負担者が減ることを心配している連中が、「社会問題」として取り上げているふうに映りますね。本人たちの行く末を本気で心配している人は、結局家族か支援施設の職員しかいませんよ。話がそれちゃったけど、欲望=本能だとすると、お金に走る社会というのは止めようがないってことかな。」
一郎 「止めようがないだろうな。」
哲夫 「本能の赴くままにお金に走った社会って、それって文明社会?」
一郎 「まあ、弱肉強食って点では、アフリカのサバンナと変わるところが無いね。勝ち組と負け組がはっきりと分かれ、それがその子供へと引き継がれていく。自由競争をすれば当然、強いやつがその大半を持っていき、弱いやつがそのおこぼれにあずかる、ということにならざるを得ないわな。」
哲夫 「アメリカなんてその典型だね。」
一郎 「真に文明社会と呼べる国を見つけるのは難しいよ。ジェントルマンの国イギリスだって、サッカーのフーリガンの本場だからね。」
哲夫 「つまり、理性なんていっても、人間である以上みんな持っているわけだから、要は、価値観がどうかという点が重要になる。アメリカ的な価値観でいうと、欲望を肯定してそれを満たしてくれるお金に高い価値を置いている。逆に、深い精神性に価値を置く国においては、お金というものに対してそれほど執着がない。日本はどうかというと、かつてはともかく、今は、すっかり資本主義教の信者になってしまった。つまり、欲望を満たす=幸福という価値観が、市民権を得ている国になったということさ。逆に精神的な成長、充実=幸福という価値観が衰退していくようだと、経済的な豊かさは得られても、心の偏差値の低い国になって、真の豊かさを失うことになるんじゃないかな。」
一郎 「むむ。そこまでいうか。話を聞いていると、お金というものに対して貪欲になることが悪いことのように聞こえるが。」
哲夫 「勘違いしてもらっては困るのは、何も金儲けを悪いといっているんじゃないんだ。頑張って働いて、金を稼ぐ。これが生活の軸になることは当然として、その上で「何の為に」という人間らしい問いかけがないと、殺伐としたアフリカのサバンナと変わりがなくなるよって老婆心で言っているだけさ。」
ストレスについて
「嫌だけど朝早く起きなくてはならない」「嫌だけど会社に行かなくてはならない」「嫌だけど家事をしなくてはならない」、これを続けていたら、心身に負荷がかかってストレスを溜め込むことになる。普通こうするのは当たり前でしょという感覚の中から、仮称「ねばならない症候群」が生まれる。学校は行かなくてはならない。勉強はしなくてはならない。卒業したら働かなくてはならない。社会から無言の圧力で強要されるから、ストレスを感じ息苦しくなる。ここに生命の躍動は無い。仕事や勉強というのは、諸々の嫌だなと思うことを我慢してやるものというイメージがあるかもしれないが、そのように無理していると何処かで歪が生まれてくる。では、すべて自由となったらどうだろう。学校は嫌なら行かなくていい。勉強は嫌いならしなくていい。仕事は嫌ならしなくていい。このように、困難なことを全て避けて生きていこうとすると、ストレスは軽減されるが、人間的な成長は覚束ない。その緊張感の中からしか得られないものもあるからだ。ゆえに、どちらかに極端に偏らないことだ。我慢しすぎるのも良くないし、まったくの無風状態になるのも良くない。そのバランスをうまくとっていくことが大事なように思う。
これからは空前のストレス社会になるだろう。というのも、AIの台頭やIT革命もあってデジタル社会化が進んでいるが、それに人間の進化が追い付いていないからだ。人間といっても生物であって基本的に自然環境に親和性があり、工業製品に囲まれる生活になったのもここ200年のことであって、それまでは自然物と共に暮らしていたことを考えれば適応するにもまだまだ時間がかかる。にもかかわらず、さらにデジタル化しようと言うのだからストレスにならない訳がない。とにかく、デジタル社会はストレスが多い。コンピューターがらみの仕事は、目に見えない部分が多くて思い通りにいかないこともあるので負荷がかかりやすいし、SNSでの誹謗中傷などもあって気が休まらない。そうなると、それを解消しようとして酒やギャンブルにはまって依存症が増えることが想定される。そんなのは自己責任だと切り捨てるのは簡単だが、誰がなってもおかしくない状況を踏まえると、そうならないように社会のしくみを整えておくことも必要になってくる。そこで気になるのが、日本のカウンセリング事情だ。以前に比べて相談する場所も増えて、敷居の高かった精神科の門も、心療内科やメンタルクリニックという名称のおかげで、随分入りやすくはなってきた。駅前にはカウンセリングルームもあって、カウンセリングを受けたいと思えば気軽に受けれるようにもなってきた。しかし、潜在的な需要を考えると、まだまだ十分とはいえないのではないか。体の健康は、症状が出やすいのですぐ病院に行ったり薬を飲んだりできるが、心の健康は、目に見えない分見落とされがちで、かなり進んでから異変に気付くということにもなりがちだ。ゆえに、かかりつけ医がいるように、かかりつけカウンセラーが一人一人にいてもいいのではないか。当然保険適用で。そうなると、圧倒的に場所も人員も足りないので早急に対策をするべきだろう。ストレスというとなにか日常的な疲れ程度に思われがちだが、そこから鬱症状に移行したり、最悪の選択をしたりすることもあるので、軽視や放置はお勧めできない。
人生とは「満足の山を期限内に登るゲーム」
満足ってなんだろう?20歳で余命1年と言われたら「何とかしてもっと長く生きたい」と思うけど、95歳を過ぎて余命1年と言われたら「ここまで生きてこられたんだからもう十分」と思えるような気がする。だけど、平均寿命が200歳だったら「まだ半分しか生きていないからもっと生きたい」と思うかもしれない。スポーツで常にトップを争う人は、2位でも不満が残るが、まったく無名の選手なら、6位入賞でも満足できるだろう。だとしたら、満足といっても結局周囲との比較でしかないことになる。幸福もそうだ。戦後の焼野原で、食べるものがあるだけで幸福を感じていた人が、社会が復興していくにしたがって、三種の神器(電気冷蔵庫・電気洗濯機・テレビ)がそろわないと幸福を感じられなくなってくる。つまり、相対的な満足・幸福である限り、常に周囲と比較することになり、その場合、上には上があるので何時までたっても満足できないことになる。それが、自分個人の主観による絶対的な基準を取り入れたら、周囲と比較することがないので満足を感じるポイントが違ってくる。例えば、マラソンなら自己ベストで走れれば30位でも満足できるし、自分のベストを尽くした大学進学なら、Fラン大学でも十分満足することが出来る。ただし、これは他者との競争を放棄しているので、実社会においては、負け組と呼ばれるカテゴリーに属することになるかもしれない。その場合、いくら自己満足を装っても、誰もが持っている「承認欲求を満たす」という面においては、評価されにくいことが想定されるので、結局、満足できなくなる可能性は否定できない。
人生は結局のところ、満足出来たかどうかで決まるのではないだろうか。そこには、長さと質が関係してくる。よく、「細く長く」か「太く短く」かの2択のように言われるが、出来れば「太く長く」の方がいいに決まっている。しかし、これは中々実現できないので、大抵はどちらか選ぶことになる。ただ、「細く長く」の細くは、ギリギリの生活ではなく普通の生活が確保されていることが前提になる。つまり、極貧が長く続くのは嫌なのだ。ゆえに、長さと質を比べたら質が重視される。質といってもピンキリあるが、自分が「これだけはやりたい」と思っていることが実現できることが重要で、それさえ出来たらそれでもう十分満足と思えるかもしれない。かといって、どんなに活躍しても、20歳程度で人生を終えるのでは、中々満足とまでは思えないだろう。では、長さの最低ラインはどれくらいだろう。吉田松陰は著書の「留魂録」で、「10歳で死ぬ者には10歳の中に自ずから四季が備わっており、20歳には20歳の、30歳には30歳の四季がある。50や100で死ぬ者にもそれぞれに四季があり、人間の寿命の長短とは関係がない。今、30歳で死ぬ自分にもきちんと四季が巡り、春に蒔いた種が成長し、やがて花を咲かせ、実を結んだのだから、何ら悲しむ必要はない。」と書いているが、別の所では、「このまま死ぬのは惜しい」と漏らしているので、何処かで口惜しい気持ちはあったようだ。やはり、最低でも平均寿命の3分の2以上は生きたいと思うのが、ボーダーラインではないだろうか。昔は、人生50年と言われていた時代もあることからすると、まあおよそ60年以上生きられたら、何かあっても多少諦めがつく年齢ということになるのかもしれない(2023年の段階で男性の平均寿命は
81.05 年、女性の平均寿命は87.09年)。では、60年以上生きたら自動的に満足かといえば、それは又別の話になる。無為に過ごした、若しくはやり残したことがあり過ぎる60年であれば、とても満足とはいかないだろう。つまり、60年以上生きて且つ、自分がこれだけはやりたいと思っていることが実現できていれば、概ね満足の人生だったと思えるのではないか。もし、現在60を過ぎていて、まったく思いが遂げられていない人は、急いだほうがいい。このままでは、後悔したままその時を迎えることになるからだ。「人生は何事をも為さぬには余りに長いが、何事かを為すには余りに短い」という中島敦の名言があるが、人生には限りがあり、約90年生きるとして一見長いように思えてその実、結構短かったりする。もう、自分の人生には何も期待していなくてどうでもいいと思っている人もいるかもしれないが、それは勿体ない。せっかく人として生まれてきて(これはかなり奇跡に近い)、どう生きようが90年程で人生から退場しなくてはならないのなら、思い切って自分のやりたいことを、だれに気兼ねすることなく、思う存分やらなかったら絶対後悔するし、あまりにも勿体ない。結局、自分のことを親身になって考え、具体的に行動して、自分の人生を良くも悪くもするものは、自分しかいないのだから。
人生は、トータルで俯瞰して考える必要がある。約90年として、どうしたら満足の人生を送れるか。それはある意味、その時が来た時に「満足の人生だった」と思えれば勝ちというゲームでもある。なので、その途中段階で苦境に陥ったからといって、自暴自棄になったり、自分から人生を退場するのはちょっと早計に思える。逆境の時は、それが未来永劫続くように思われるが、その先頑張っていけばどう好転するか分からないのが人生だからだ。いつか、「昔こんなこともあったな」と笑える日が来るかもしれない。しかしそれには、自分にとっての満足を把握した上で、人生の歩みを進めていく必要がある。というのも、そこが分からず闇雲に進んでも、中々満足の人生には辿り着けないからだ。それはちょうど、山登りで、本来目指すべき山の名前も場所も分からず、ただひたすら目の前の山を登っているようなものだ。又、マラソン大会で、ゴールが何処か分からないのに遮二無二走っているようなものだ。それでは、何時まで経っても目的の山やゴールには辿り着けない。今、自分に課されている課題や目の前の事に全力で取り組むのは大事なことだが、それが的外れな事であった場合は、何時まで経っても満足の人生には辿り着けないことになる。そうこうしている内にその時がきてしまう。人生は無限ではないのだから。まさに人生とは、満足の山を期限内に登るゲームのようなもの。そのゲームで勝つには、まず、どの山を登るかを選択する(自分のタイプによって参加する競技が違ってくる)。次に、目指す方向性を決める(選択した競技での目指す山は同じでもそのルートは一つではない)。次に、そこで戦う為の武器を決める(軽装では登れない)。そして、その日が来る前に登頂すれば勝ちだ。登頂する過程においては、暴風雨に晒されることもあるが、何一つ無駄なものはなく、それら全てが糧となるコスパ最強のゲームだ。なので、くれぐれも間違えてはいけないのが、参加する競技の選択だ。例えば、戦国武将と農民では、目指しているものや、やっている競技が違うので、生来の戦国武将が、農民として、田畑を耕して家族と仲睦まじく平穏に暮らせたとしても、それでは満足出来ないということだ。その競技によって、競技内容やゴールも違ってくるので、そこを間違えると、例えそこで勝っても人生の勝利とはならないので注意が必要だ。
ただ楽しく生きたいだけなのに
かつての、「結婚しなくてはならない」「働かなくてはならない」という無言の圧力が弱まり、そのタガが外れて、より自由度が増してくるのに比例して、未婚・晩婚やニートが増えてきたということは、これまでが少し無理をしていて、自由になったら本来の姿が現れてきたと見るべきか。結局のところ、別にそれほど結婚したくはないし、働きたくもないと考えている人が少なくなかったということか。(もちろんその他の要因もある)高度経済成長期に日本人は、モーレツ社員とかエコノミックアニマルとか言われてがむしゃらに働いていたが、その本心は出来れば働きたくないと思いながら無理して働いていたのか。その行きつく先に過労死があったとすれば余りにも不憫だ。
過労死は、「KAROSHI」と英語表記されるぐらい日本に顕著な現象で、一か月ぐらいバカンスを楽しんだりして仕事の位置づけがドライな欧米からすれば、「人生を楽しく暮らしていく為に仕事をしているのに、それで死んでしまっては何をしているのか分からない。」といった印象を持っているかもしれない。又、引きこもりも、「HIKIKOMORI」と英語表記されるぐらい日本に顕著な現象だ。なぜ、日本でひきこもる人が多くなったのか。日本の特徴として、集団主義と無思想というのがあり、それが要因になっている可能性がある。集団主義且つ無思想の社会では、その時代、その社会でより多くの人が是としているものが一定期間継続することによって、普通・常識として認知され、それが思想の代わりの価値規範となりがちだ。そこから外れた人は、変わったやつ、非常識なやつというレッテルを貼られて疎外されていくことになるので、多くの人はそこからはみ出ないようにして生きている。しかし、どうしてもそれに馴染めない人はいるので、そういう人にとっては息苦しく感じ、極端になると社会に自分の居場所が無いと感じてしまうことにもなり、そこにニートやひきこもりが生まれる温床があるのではないか。
自分は、何のために生まれ何のために生きているのか?まさか、労働のために生きている訳ではあるまい。だとしたら多くの場合、人生の大半の時間を本来の目的のために使えていないことになる。それは勿体ない。もちろん、生きていくにはお金がいる。それを得るには働かなくてはならない。例え、それがやりたくないことでも。となると、生きることが目的になって、仕事はその為の手段ということになる。そうなると、生きるために生まれ、生きるために生きているということになるがどうだろう。生きること自体が目的になると、植物状態でもいいことになる。そうじゃないならどういうことになる?楽しむ為に人生があるという考え方もある。アメリカなんかそうだろう。法華経でも「衆生所遊楽」とあって、言い回しを変えると「人はこの世に遊びに来た」と説いている。何も、苦労する為に生まれてきた訳ではないのだ。つまり、ただ生きるだけでは足りなくて、楽しんでこその人生だということだ。でも、働くことは、そんなに楽しいことではない。このロジックでいくと、働かなくていいなら働きたくないということになり、ベーシックインカムでもやろうものなら、働かない人々で街が溢れかえることになるかもしれない。でも、誰かが働かないと社会は回っていかない。ゆえに、社会のシステムとして働かなくては生きていけないようにしたとみることも出来る。もう、狩りをして生活する時代には戻れないのだから。では、もう働くしかないのか。例え、それが楽しくなくても。でも、働くために生まれてきた訳ではない。もし、この状態でその日を迎えたら、きっと後悔することになるだろう。楽しむ為に生まれてきたのに、面白くも何ともない仕事ばっかりでちっとも楽しくない人生だったと。せっかく、楽しむ為に生まれてきたのに、仕事は楽しくない。でも、やらないと生きていけない。そこで、仕事は収入を得る為の手段と割り切って、その稼いだ金を使って楽しむことにする。でも、人生の一番いい時を使ってする仕事が不本意で、どうして満足の人生になるだろう。やはり、何を仕事にするかは大事。しかし、本当にやりたいことをやろうとしても、それだけでは食べていけなかったりする。やりたいからといって、やってすぐ成功するとは限らないからだ。その場合は、それとは別に収入になる仕事を持つしかない。例えば、売れない芸人がバイトで食いつなぐように。大事なことは、これは譲れないというものを持っているかどうか。それがあって諦めなければ、例え成功出来なくて、バイトで繋いだ人生であっても後悔は少ないのではないか。もちろん、現代は承認欲求が強まっていて、楽しい云々よりも、自分を正当に評価されたい成功願望強めの人が多くなっているので、満足のハードルが上がっているのは理解しているが、その分、評価基準のレベルも上がっているので、どこかで折り合いをつけないと、何時まで経っても不満だらけの人生になってしまうことだけは言っておきたい。
ただ売れるものを作って売ればいいのか
人が大事なお金を払っても購入したいと思う動機として三つ挙げたい。
その1 実用
その2 快感
その3 本人(家族)の為になる
その1の「実用」は、何かをする時に実際の役に立つものであり、生活に必要なものやあると便利なものがまず購入の対象となる。
その2の「快感」は、心地よいと感じる全てのことであり、人は基本それを求めているので、実用であってもその条件を満たしているものが優先される。
その3の「本人(家族)の為になる」は、良い人生を送る上で役に立つものであり、自分にとっての良い人生に合致すれば選択肢の上位にあがってくる。
後は、三つの中の組み合わせということになる。理想は3つの要素をすべてクリアすることで、例えば、ジュースの場合、水分補給の「実用」と、味が美味しい「快感」と、健康にいい「為になる」が全て入っている「おいしい健康野菜ジュース」であれば理論的にはバカ売れしてもおかしくない。しかし、実際のところそのような商品は店舗では地味な扱いだ。それは、値段が高いからか、それとも味がイマイチだからか。そんな比較検討をよそに、健康に悪そうな炭酸飲料から飛ぶように売れていく。そう、結局のところ「快感」の誘惑には勝てないのだ。だからこそ、企業もそこに向かって商品を投入していく。
資本主義の原理からすると、企業はできるだけ売りたいのであらゆる方面から人間の欲望を刺激してくる。それをすれば売り上げはあがるが、そういったものは往々にしてその人の為にはならなかったりする。故松下幸之助が、商売戦術三十カ条の中で「無理に売るな。客の好むものも売るな。客のためになるものを売れ。」と言っているのをどう捉えたらいいのか。ギャンブル、ゲーム、お酒、タバコといったものは「分かっちゃいるけどやめられない」依存症の危険が常につきまとっているし、塩分や油分の多い食品は体に悪いことが分かっていてもおいしいからついつい食べてしまう。もちろん、どんなものにもメリットデメリットがあって、社会に有用なものはある程度デメリットに目をつぶることで社会が回っているのも事実だ。どれだけ事故が起きても自動車の利便性は捨てられないし、どれだけスマホが目に悪くて、依存症を引き起こして、ながら事故を誘発しても、その有用性の方が高いので無くなることはない。ただ、そのメリットの価値観が実用と快感に偏っている風潮はいかがなものか。為にならない商品・サービスが氾濫するようでは好ましい状況とは言えまい。
とはいえ、為になる事というのは、えてして苦痛を伴いがちだ。辛くない修行なんてものはないし、「良薬は口に苦し」というぐらいなので、自分にとって良いと分かっていてもなんとなく敬遠されがちだ。全国の書店の店舗数が減ってきている中、読書離れが言われて久しいが、読書も為になるけどある意味しんどい作業であったりする。YouTubeで要約動画を見た方が楽だし時間も短くて済む。しかし、楽してばかりでは成長は覚束ない。別に成長なんかしなくていいというかもしれないが、それでは自分の価値を世の中に認めさせていくことはできないし、自分の生きた証を残していくことも難しいだろう。つまり、可もなく不可もない人生でいいのかという問題だ。世の中、楽な方向に流されがちで商品もサービスも楽になって楽しめるもので溢れている。ただ、このまま快楽主義がはびこった社会になったら結局人間の堕落を招きはしないか。かつての古代都市ポンペイのように(ヴェスヴィオ山の噴火は、享楽を貪る人々に対する神の怒りではなく、あくまで自然現象ではあるが)。それに企業が加担しているとしたら、「人間の堕落を後押ししている共犯者だ」と言われても大きく反論は出来ないだろう。
リスクと向き合う
神奈川県相模原市の障害者施設「津久井やまゆり園」で起きた連続殺傷事件の容疑者は、「意思疎通もとれないような障碍者は生きている価値が無い」として犯行に及んでいる。本当にそうだろうか?生まれてくる子供の3~5%はどうしても障碍を持って生まれてきてしまうので、生まれてくる子供の中の誰かが、その3~5%のリスクを引き受けなければならない。ならば、それを引き受けて生まれてきてくれた子を社会がサポートしましょうというのが障碍者福祉の根幹にはあり、そこに生まれながらの障碍者であるというだけで掛け金なしで障害者年金を受け取れる権利の根拠の一つがあるように思う。そうなると、個人の人間としての尊厳とは別に、存在自体に社会にとっての役割と価値があるということになるので、この容疑者の価値観は到底受け入れられるものではない。それと同じように、競争が社会の発展の為に不可欠であり、その結果どうしても敗者が生まれてしまうのであれば、そのリスクを社会全体で負うという姿勢が必要になるだろう。現在のセーフティーネットは、結局、多数派であるサラリーマンの救済がメインであって、その他はサブ的な扱いに終始している。その根底には、「それはあなたが選んだ道でしょ。」若しくは「あなたの努力と才能が足りなかったからでしょ」という自己責任観が横たわっている。しかし、もはや何時何処で誰がそうなってもおかしくない現状を考えると、年金制度から雇用保険制度に至るまで、これまでの典型的サラリーマン型から全方位型にシフトチェンジしていく時期にきているのではないだろうか。つまり、資本主義というマラソン大会に強制的に参加させられているのだから、途中棄権でも最後尾でも社会全体でフォローしていくということが重要になるのではないか。もちろん、その為に生活保護の制度があるのだが、これは法律に当てはめて杓子定規に判断するのには向いていない部類に入るので、担当者の負担が大きくなっている。その申請が却下されて犯罪に走ってしまった事件もある事を考えると、適切な運用がなされているとは言えないだろう。解決策としては、ベーシックインカムの導入も視野に入ってくるが、副作用もあるので慎重な検討が必要になる。
リスクをとるか安全策でいくかは、相反する要素でありながらどちらか一方に偏ると弊害が生じるので、どこかでバランスを取る必要がある。安全を重視して、危険なもの未知のものを全て排除していったら、危険は回避できるが同時に有益なものを取り損ねる損失も生じる。逆に、リスク上等で危険なものに挑戦していったら、得るものは大きいがその分危険に晒されることになる。理想をいえば、安全性をある程度確保しつつ、その必要性を感じたらリスクをとって挑戦するということだろうか。この場合、メリットデメリットで考えることが有効だ。メリットデメリットを天秤にかけて上回る方を選択するという手法だ。ここでは、たとえデメリットとして危惧していたことが起こったとしても、それを許容できるぐらいメリットの方に価値を見出していることが重要で、そこで後悔してしまう程度のものなら最初から安全策の方を取るべきだろう。要は、それをやることによって生じるリスクと得るものを天秤にかけて、リスクを上回る価値があると思えばそれをやればいいということだ。
作家の司馬遼太郎は、日本が明治維新からの近代化に成功した要因の一つに「好奇心」を挙げている。つまり、未知のものに対する態度としてただ拒絶するのではなく、又ただ無条件で真似るのではなく、まず見て触って使ってみていいものは取り入れ自分たちの経験も交えながらそこに創意工夫を加えていく姿勢があったからこそ、西洋の文化と技術をうまく取り入れることが出来たと言っているのだ。今の日本人は、好奇心云々の前に危機回避の意識が高すぎて、未知のものマイナーなものはまず否定から入って、周囲の評判が上がってきたところで、今度は逆に自分も乗り遅れまいとして先を争ってそれを手に入れようとする。そこには、自分で手に取って自分で判断する姿勢が希薄だ。安全志向でリスクをとらない社会は、やがて衰退していくことだろう。リスクをとって挑戦してきたからこそ人類は発展することができたのであって、失敗を恐れて新しいことに挑戦しなかったら発展は望めないのは自明の理だ。確かに、動かなければ失敗することはないが、そのかわり成功することもない。安定志向か冒険志向かは個々人のタイプによるが、どちらにしても今の時代、停滞は後退を意味する。つまり、成功するしない以前に生き残っていくには、そこに留まるのではなく一歩でも前に歩みを進めていくしかないということになる。
一方で、毎日のように事故のニュースがある。事故の当事者は、いつものように朝起き、いつものように車を運転していてこんなことになるとは思ってもみなかっただろう。でも、現実として事故が起き、現実として見知らぬ誰かが傷ついている。これは、ロシアンルーレットでたまたま自分が貧乏くじを引いただけなのだろうか。飛行機は、落ちたらまず助からないけど、それに遭遇する確率がかなり低いので多くの人が利用している。車は、事故に遭うと最悪死ぬし、相手を死なすこともあるが、その確率は低いので多くの人が利用している。つまり、事故で死ぬことがあっても、その確率が低いのでみんな普通に利用しているということだ。10回に1回遭遇するとなれば誰も乗らないだろう。ただ、リスクに対しての考え方も人それぞれで、垂直に近い岩山を手と足だけで登っていくクライマーがいるかと思えば、事故に遭うのが怖いからと飛行機や車に乗らない人もいる。人のタイプとして、ポジティブ思考とネガティブ思考の人がいるが、それによって同じ場面に遭遇してもまったく異なる対応をとることになる。登山も飛行機も車もポジティブ思考の人は「事故に遭遇して死ぬかもしれないが、そんなことは自分には起きない。」と考えて躊躇しないが、ネガティブ思考の人は「その確率が限りなく低ければいいが、そうでなければ事故に遭遇して死ぬかもしれないのでやめておこう。」と考えて躊躇する。ただ、ポジティブ思考の人の多くも、リスクが顕在化しても後悔しないほどそれに賭けている訳ではなく、実際にそれが起こったら他の人と同様に激しく後悔することになる。つまり、それが起こることを考えないようにしているだけであって、覚悟を持ってやっている訳ではないということだ。しかし、もしそういう人がいなくてネガティブ思考の人ばかりになってしまったら、社会活動そのものが成り立たなくなってしまう。どこかで、事故はあると知りつつもそれを考えないようにして行動していかないと何も出来なくなってしまうだろう。なので、ある程度の鈍感力は必要になるが、それをいいことに“社会”は、そうしたリスクを無きが如くに振る舞い、人々にその行為を促し、事故が起こってもそれに遭遇した人はアンラッキーだったとして、意に介せず何事も無かったかのように日常が繰り返されている。つまり、社会が「みんなやっているから大丈夫」という雰囲気を作っているから、ネガティブ思考の人がいても車社会が成立しているのであって、突然、集団催眠から覚めて「車は移動に便利だけど、それは人生を賭けてまでやるようなことか?」と疑問に思ってしまったら、生きる為に乗るしかない人以外は車の利用を躊躇するのではないだろうか。何せ、一瞬で人生が終わってしまうこともあるのに、それが自分に起きないという保証は何処にもないのだから。(もちろん、AIを活用した安全装置が普及すれば話は変わってくるが。)
一見、相反するようなことを言ってきたが、何を言いたいかというと、今の自分は「少しのメリットの為に、多大なリスクを賭していないか?」若しくは、「リスクをとってもやるべき事を、何となく躊躇していないか?」といった事を冷静に判断して、最善の選択をすべきではないかということだ。
思い込みは怖い
人の脳というのは、常に事実を客観的に認識して正しい判断をしているわけではない。人は一旦先入観を持ってしまうと、本当はそうではないかもしれないのに、あたかもそうであるかのように思い込む生き物だ。自分では公平且つ客観的に判断しているようでも、実際のところは偏見の呪縛から逃れられていない。人は、先入観を持って思い込む生き物。言い方を変えると、物事を不確かなイメージで判断しがちな生き物。そして、一つの状態が広範囲に一定期間以上続くと○○はこうあるべきという固定観念が生じ、それと違うというだけで否定的に捉えてしまう。それゆえ、新しく入ってきた情報をどのように処理するかが重要になる。すでに、先入観が入っていてガチガチだった場合、保守的で変化を好まない傾向が強くなっているのでチャンスを逃して判断を誤るかもしれない。ただ、安易に受け入れるのも善し悪しだ。というのも、脳が一旦正しいと判断すると、それを覆す情報が入っても、最初に思い込んだ内容を正当化するような理由付けをしてしまうからだ。その際、自分に都合の悪いことは、自分の都合のいいように解釈して辻褄を合わせるのでさらに真実から遠ざかることになる。結局のところ、その人にとっては自分の信じたいものが正しいのであって、それを肯定する情報だけを取り入れているので、ある意味それが真実かどうかはどうでもよかったりする。これまで人類は、冷静に考えれば中学生でも分かりそうな愚かな行為を繰り返してきて、今もそれが続いている。おそらく、その当事者の脳の中ではそれが正しいという物語が作られ、それこそ大真面目に、傍から見れば愚かな行為をしているのだ。ゆえに、国際社会においては、正論を吐いてもあまり相手に響かない。それぞれが自分に都合のいい物語を作って、それを正しいと硬く信じているのだから折り合えるはずがない。
人が思い込むのは、現生人類であるホモサピエンスがその進化の過程で獲得してきた、言語、目に見えない概念の世界の理解と共有、想像力、学習能力等によって他の人類・動物よりも優位にたってきた経緯があるので、その副産物として捉えればやむを得ない面もあるが、そのことが様々な波紋を広げているのも事実だ。人類は想像力を獲得したがゆえに、事実が確認されていないことでも、その先を勝手に想像してあたかもそれが事実であるかのように思い込んでしまう。不確かなことを元に妄想を膨らませて、事態を悪化させてしまうこともある。ともかく、一旦思い込んでしまうと正常な判断が出来なくなる。東日本大震災では、地震発生から津波が到着するまで20~30分の時間があった。警報は出ていたのですぐに逃げれば大半が助かったはずだが、実際は多くの人が逃げ遅れた。判断を誤らせたものは何だったのか。第一報で3メートルの津波という過小情報が流れたこともあるが、それだけでは無い。その原因の一つが「思い込み」だ。自身の過去の経験から、「津波が来てもここまでは来ないだろう」とか「逃げるなら自動車の方が早い」という勝手な思い込みだ。しかし、車は渋滞して進まず、押し寄せた津波は3階まで呑み込んだ。はたして、そのような人々を責められるだろうか。人は、経験と情報に個人的な考え方を加味してどう行動するか判断する。まず、地震の揺れと逃げろという放送の情報が入った時点で判断を迫られたわけだが、そこで過去の経験が判断材料に入ってくることになる。ある程度の年齢の人は恐らく、生まれてから何回も地震に遭遇し、その度に津波警報に接し、大丈夫だったその時の結果をインプットしてきたはずで、「今回も」と思ったとしてもやむをえない。つまり、これまで人間を人間たらしめてきた経験の蓄積を生かす能力が、裏目に出た結果なので誰も責められないだろう。先入観を持たずに思い込みを排して、常に最善の選択が出来ればいいが、誰も先入観無しに判断することなど出来ないのだから。
ところで、人は早々にセルフジャッジを下して自分にはとてもこんなことは出来ないと思いがちだが、いったい自分の何を知っているというのだろう。出来ないと思い込んでいるだけで、実際やってみたら案外出来てしまったということはままあることだ。それは、思いがけず自分の持っているポテンシャルがすでにその領域にまで到達していたからだ。逆に、根拠のない自信で自分だったら出来るはずだと突っ走って玉砕するパターンもまたしかり。それは、それを必然にするだけの準備がまだ出来ていなかったということだ。一つ言えるのは、その結果になったのはどちらも必然だったということで、違っていたのは自分の現実に対する認識のほうだ。孫子のいうところの「彼を知り己を知れば百戦殆からず」で、正しく現実を把握したうえでの行動であれば大きく間違えることはなかったはずだ。では、どうすればそのような正しい選択が出来るのだろう。先入観も思い込みも完全に排除出来ないのなら、それがあることを前提としたうえで、一度既成概念を取っ払ってフラットな状態にして、違う意見にも耳を傾けてみる。そうすると、見えてくるものがあるはずだ。そういう意味では、ヘーゲルの弁証法が参考になるかもしれない。
組織を勝ちに導くリーダーとは
一般的な組織の目的として次の3つを挙げたい。
①存続と拡大 ②メンバーの幸福 ③社会貢献
当然、組織によってその優先順位は異なるが、競争社会である以上、最終的に勝たなければ淘汰されていく。例えば、「存続と拡大」を優先すれば、「メンバーの幸福」や「社会貢献」は後回しにされがちになるが、組織が勝つ為には、そのメンバーのモチベーションと大儀が要る。それを無視して突っ走って運よく拡大出来ても、結局最後に負けることになる。メンバーの士気が下がった上に、組織の目的に共感を得ることも出来なければ勝てないからだ。そう考えると、最後に勝つにはリーダーの役割が大きいことが分かる。どんなに優秀で、序盤優勢に戦いを進めても、野心にまみれ、慢心と油断をしてしまうようなリーダーでは最後に勝てない。独断専行の天才カリスマが歴史上あまた登場してきたが、ハッピーエンドになった例はあまりない。例えば、ナポレオンは連戦連勝でヨーロッパを席巻し、その頃はまだ「フランス革命の成果を欧州各国にも」という大義があったが、それも賞味期限が過ぎて、今度はナポレオン自身が各国の市民にとっての圧政者になってしまった。結局、自ら考案した戦術に溺れ、研究されもう古くなっていることにも気づかず、最後にはセントヘレナに流されるはめになった。又、項羽は、圧倒的な強さで秦を滅ぼし一時天下を取るが、あまりに項羽自身の強さと才能に溺れすぎた為にまわりの意見を聞かず、最後に劉邦に敗れる憂き目にあった。後に漢の高祖となった劉邦は、項羽のような軍を率いる卒の将としての才は無かったが、天下の才を集める将の将としての器を持っていたので、そこに多彩な人材がみんな入ることが出来た。そして、それぞれの立場で存分に自分の仕事をすることによって、最終的には項羽に打ち勝つことが出来た。
さて、そんなことを考えていると、ふと、欧州はなぜ他の地域に先んじて発展することが出来たのかが気になった。もちろん、アジア・アフリカを植民地化していったことは非難されるべきだが、それはそれとして、何がそれを可能にするほどの圧倒的な力関係の差を生じさせたのだろうか。そもそも、西洋も東洋も永らく農業を中心とした封建社会であって、産業も家内制手工業の域を出ていなかった。それが19世紀の頃には、世界のほとんどが欧米列強の植民地になってしまうほどの差が開いてしまっていたのだ。その分岐点はどこにあったのか。それはやはり、1492年のコロンブスによるアメリカ大陸発見ではないだろうか。それ以降、ヨーロッパ人による大航海時代が始まり、そこから自然科学の進展や啓蒙思想の登場を経て、18世紀半ばにイギリスで産業革命が起こるに至って全てが決した。つまり、そこに至るまでに、他の民族よりも多くの挑戦をし、多くの失敗をしてきたからこそ先んずることができたのではないか。そういう意味で、リーダーは滅茶苦茶チャレンジして散々失敗してきた人のほうがいい。なまじっか仕事が出来て順調に出世してきた上司だと、仕事が出来ない部下はその程度の人と判断してしまいがちだ。しかし、人間の能力は多岐に渡り、この分野はいまいちでも他方でものすごい才能を発揮するかもしれないのだ。その人の持っているものを最大限発揮できる環境をつくるのがリーダーだとしたら、多くの失敗を教訓にしてきた人は、人の失敗を見ても当たり前のように思うし、そこではなくてその人の可能性やいい面を見ようとするので秘めたポテンシャルを引き出すことが出来る。そうしたリーダーのもとからは多様な人材が育っていくだろうし、そうしたリーダーの下で働けることは部下にとっても幸せなことだ。それでいくと、カレーハウスCoCo壱番屋をフランチャイズ展開する会社が、新社長にバイト歴7年で高卒4年目の22歳女子アルバイト従業員を抜擢したのも、そこに期待したからではないだろうか。彼女は決して勉強が出来た訳でも要領が良かった訳でもなく、かなり不器用な方だったが、その中で先輩の姿から学びながら懸命に頑張って周囲から信頼を得ていった。それを見ていた前社長が、この人なら従業員のことを幸せにしてくれるのではないかと思い、異例の社長に抜擢したということのようだ。つまり、能力の高いエリートワンマン社長ではなく、最底辺の社員の気持ちをすくい取りながら、みんなといっしょに汗をかき、周囲の人材を活かし、共に会社を盛り上げ、共に幸せになっていく共感社長を選択したということだ。
あなたの所属する組織のリーダーはどのタイプだろう。目的に向かってワンマンでグイグイ引っ張って行くトップダウンタイプか、それとも、包容力があって周りを活かしながら目的を達成するボトムアップタイプか、はたまたそのどちらでもなく、目的意識が低く安定志向の公務員タイプか。どのタイプなら勝てるかは、その組織を取り巻く情勢や長短があるので一概に言えないが、平時ならまだしも、先の見えない混沌とした昨今の時代状況なら、公務員タイプでは難しいだろう。では、天才カリスマのトップダウンタイプならどうか。首尾よくその組織の存続と拡大が出来たとしても、独断専行でメンバーの幸福と社会貢献が蔑ろになるようなら、ゆくゆくその組織は敗れることになる。歴史がそれを物語っている。もちろん、状況によってトップダウンの方がいい場合もあるが、その場合でもリーダーには現状を打開する能力と共に人間性が求められるということだ。そういう意味では、ボトムアップタイプも周囲の人材の内容如何にかかってくるのであくまでケースバイケースということになる。ボトムアップが最善の状況ならボトムアップでいいが、その場合のリーダーには、周囲を活かしてまとめる度量とマネジメント能力が求められる。決して、周囲に丸投げすればいいという訳ではないのだ。
要は、その組織の内外の状況とリーダーの資質によって最適なアプローチは異なるが、いずれにしても、組織というのはそこに所属するメンバーとそれを取り巻く社会の為にあるのであって、それを無視して拡大してもやがて衰退するしかないということを、リーダーは肝に銘じておくべきだろう。
真の民主主義を実現するには
ルソーが言うところの「一般意志」、即ち共同体にとっての利益を個々の民衆が斟酌した上で、それによって投票が行われたらどうなるだろう。現状では、有権者は「特殊意志」即ち個別の要望によって投票を行い、その総和が「全体意志」となり、選ばれた政党・政治家は、その中の多数派の意見をある程度政策に反映させる必要に迫られる。それを怠れば、次の選挙で落とされるかもしれないからだ。しかしそれだと、なるほど多数派の利益は政策に反映されるが、少数派の利益は切り捨てられることになる。例えば、高齢者の得票が多ければ、高齢者の政策が優先され若者は後回しになる。そうではなく、有権者一人一人が、予め公共の利益(一般意志)を考え、それに基づいて投票したらどうなるかということだ。例えば、自分たちはもう子育てが終わって関係ないという多数派の人が、少子化が進めば社会がおかしくなると聞いて、公益の為に、自分たちの老後よりもそちらの対策にお金を回すことに賛同したとすると、政治家は公共の利益(一般意志)に従って政策を決めていけばいいことになる。これが通るのなら、ベーシックインカムも実現出来るかもしれない。というのも、それをするには、年金や生活保護を含む既得権益を持つ人の権利を一旦整理しないと実現しないからだ。アメリカ元大統領のリンカーンがゲティスバーグ演説で「人民の人民による人民のための政治」と言い、ジョン・F.ケネディが就任演説で「国があなたのために何をしてくれるのかを問うのではなく、あなたが国のために何を成すことができるのかを問うて欲しい。」と言っているのも、民主主義においては、いかに有権者の側が私心を抑えて公益を慮る姿勢を持てるかが大事になるからだ。しかし現状において、それはほとんど理想論でしかない。つまり結局のところ、民衆が賢明にならないと真の民主主義は実現しないということだ。民衆の民度が低いと、そこで選ばれた政治家もそれなりの人物ということになってしまう。いつの世も民衆は、自分の利益を優先させ、表面的なイメージや全体の流れに左右されやすいものなので、そこにつけこむ政治家は後を絶たない。アメリカ国民の半数以上が、自国ファーストのトランプを支持するのもそのあたりにあるのだろう(2024年11月6日アメリカ大統領選でトランプが勝利した)。アメリカは自国のことだけを考えていればいい国ではなく、世界全体のことを考えなくてはならない立場の国だが、その国民の多くが自分のことばかり考えているようでは、政治家も育たない。その結果世界がどうなろうが知ったことではない、というなら知っておいてほしいのだが、どの国であれ自国だけで成り立つ国はなく、相互に依存しあっているので、世界が混乱すればそれは回りまわって自分の国も無関係ではいられないということを。
近世までは、皇帝や王といった支配者階級がそこに住む民衆を支配するという構図で、永らく民衆は政治の外に置かれてきた。しかし、近代に入って議会政治がイギリスで始まり、フランス革命によって共和政が打ち立てられ、民衆こそ主体者であるとして、国の執政者を選挙で選ぶという歴史的な転換を実現してきた。国民国家の成立により、民衆は市民となり権利を手にしたが、同時に責任も負うことになった。つまり、主権を持つということは、その選択に自ら責任を負うということであり、その選択の失敗はそのまま、それを選んだ民衆に返ってくることになる。ゆえに、真の民主主義を実践するには、民衆自身がそれに相応しい民度と良識を備えることが求められるのだ。
日本はどうか。明治維新によって江戸幕藩体制から近代国家へ脱皮することが出来たが、そこですぐに理想的な国になったわけではない。そこで生まれた国民国家は、最初は列強の侵略に怯える子羊だったが、そのうち自分も分け前に預かろうとする狼に変貌してしまった。食うか食われるかの帝国主義が渦巻く戦国の世だったので、生き残る為にはやむを得なかったという捉え方もできるが、国民が未成熟だった為、為政者の暴走を許してしまった、若しくは為政者の暴走を促してしまったという捉え方もできるだろう。その行き着く先に太平洋戦争の敗戦があった。しかし、それによって国の体制が改善され、自由で平和な国に羽ばたくことが出来た。つまり、明治維新から敗戦を経てやっと普通の自由主義、民主主義の国になれたといえる。長い封建社会の中で、民衆には政治に口を出すことは許されず、蚊帳の外に置かれていた。幕末においても、明治維新は支配者階級の権力闘争であり、フランス革命のような民衆が成し遂げたものとは言いにくい(長州の草莽崛起の騎兵隊のような例もあるが、総じて武士階級の抗争といえるので)。それでも、支配者が代わり、時の政府が西洋文明を取り入れるとなればこぞってそちらの方向へ向かい(尊王攘夷運動によって倒幕が成ったのに)、政府が軍国主義となれば国ごと戦争に傾く。敗戦によって、軍の解体と政治の刷新が行われたがこれも民衆がやったわけではない(GHQによる占領政策)。そして、今度は経済だとなれば先を争って経済にのめりこむ(高度経済成長)。つまり、幕末からの政治的決定に民衆が翻弄されてきたが、その実際の実務を担ったのは民衆にほかならず、良くも悪くもその政治のつけを払わされ続けてきたということになる。民衆が賢明にならないと、結局、時の権力者のプロパガンダに乗せられ、いいように利用されてしまう。
もし、自分たちの手に政治を取り戻したいなら、民衆の側のもう一段のレベルアップが必要だ。目先の利益や耳ざわりのいい言葉に誘導されて事の本質を見抜けないようでは、そのレベルに合った政治屋しか出てこないだろう。松下幸之助も「民主主義国家においては、国民はその程度に応じた政府しかもちえない」と言っている。そういう意味において、象徴的な事例が起きている。2024年11月、不信任決議案が全会一致で可決され失職した兵庫県の斎藤知事が出直し選挙で再選を果たしたのだ。これはどういうことなのだろう。おねだり、パワハラ、そして公益通報者の保護違反等数々の問題を指摘されて、連日ワイドショーも賑わして、選挙が始まった当初は、再選は厳しいという状況だったのが、蓋を開けてみれば圧勝という結果になったのだ。要因は、SNSやYouTubeで連日、「改革を進める斎藤知事に対して不満を持つ守旧派が、知事を陥れる為にでっち上げの通報をした。」といった発信がなされ、そうした陰謀論を信じた有権者が、「斎藤さんは悪くないのでは」と思ったところからそれは始まった。結局、斎藤知事を批判していた同じ人が、SNSを信じて今度は支持に回った形になった。世間ではオールドメディアの敗北といった形で語られたが、SNSを信じて支持に回った有権者は、その前にオールドメディアにも振り回されていたことになる。つまり、自分というものがなくて、ワイドショーや真偽不明のネット情報に踊らされた層がことのほか多くいたということだ。アメリカのトランプ現象も同じ構図といえる。そうした人々によって、選挙結果が左右されたということなので、このまま民主主義でいくのなら、益々主権を持つ民衆の側の資質が問われることになるだろう。そういう意味では、読書が大事になってくる。月に一冊の本も読まない人が約6割(令和5年世論調査)もいる状況で選挙が行われているのだ。知識があるから正しい判断が下せるという訳ではないが、少なくとも理性的な判断は期待できる。極論だが、月に一冊の本も読んでいない人は投票出来ない、というぐらいの厳しさがあってもいいのではないか。ナチスドイツのヒトラーが、当時最も民主的と言われたワイマール憲法を持つワイマール共和国(ドイツ国)において、合法的な選挙によって選ばれたということを今こそ肝に銘じなければならないだろう。
人間性と個の確立
アメリカの飛行機が気温マイナス4度の厳寒の中、凍ったポトマック川に墜落する。奇跡的に6名が何とか残骸にしがみついて生き残ったが、岸まで遠く動けなくなっていた。冷たい水なので低体温症による命の危険があり30分が限界の所に、20分ほどして救助のヘリが到着して、隊員はその中で一番緊急性が高いと思われる男性にロープを投げたが、それを他の女性に2回譲って自分は力尽き亡くなった人がいた。その人の名は、46歳の銀行監査官アーランド・ウィリアムス。私はこれを聞いて驚いた。譲った相手が家族や恋人、友人ならまだわかるが、まったくの赤の他人の為に自分の命を懸けて助けているのだ。それも、飛行機事故にあって訳も分からず放り出されて負傷した上に、冷たい氷水に20分も浸かって意識も遠のく状態からの行為なのだ。人は、生まれてからの親の躾やら教育やらの影響もあって、人間らしく振舞おうとして生きてはいるが、結局のところちょっと賢い動物に過ぎない。極限状態になれば、動物としての素の自分が出てくる。つまり、動物というのは本能として自分の生命を守ろうとするので、この場合なら無条件でロープを掴んでいる場面だ。そこで譲れる人間性は、「それこそ動物とは違う人間の人間たる所以だ」といっていいのか、それとも、「もはや人間のそれを超越している」といっていいのか迷うぐらいの行為だ。では、“紳士”として女性を守ったのか。いや、そうなのだろう。その人が保持する思想の問題であって、人間性では説明がつかない。そこには、強烈な個人の意思が読み取れる。しかし一方で、人間性のバックボーンがなければ、いかに思想として持っていたとしても行動に移せたかどうか。
現代社会は、効率主義や能力主義によって人間をシステムに組み込んでいるが、人間性の重要性が色あせている訳ではない。AI時代においては尚更だ。そこには、どんなに時代や地域が変わろうとも普遍的な価値があるからだ。社会に出れば能力云々の前に、人間的に信頼されなければいい仕事は出来ないものだ。つまり、社会はその人に、仕事の能力+人間性=社会人力を要求しているということだ。ゆえに、学生時代から磨いておかないと就活や実際の仕事の現場で困ったことになる。受験で勉強ばかりしてせっかく難関大学を出ても、人間性が欠如しているようでは、そもそも面接が危ういし、仕事もスムーズに進まず、部下ができても難儀することになる。なので、いい就職をしていい仕事をしたいなら、知力、体力の向上と並行して、人間性を豊かに育むことが不可欠となる。
人は誰でも、標準装備の人間性を持って生まれてきてはいるが、それは最低限度のものであって、そこからさらに育んでいかなくてはならないし、世知辛い世の中を生きている内に心が荒んでくる事もあるので、常にメンテナンスしながらブラッシュアップしていく必要がある。一般的に人間性というと、人を愛し思いやる優しさや、約束を守るとか嘘をつかないといった誠実さが思い浮かぶが、そういったものは人の振る舞いに関することが多い。ということは、人間性を養うには集団の中で揉まれればいいとなるが、実際のところどうだろう。学校に行って級友と交流して部活なんかで頑張ったりすればOKとなるのだろうか。いや、どうも近年の事件報道なんかを見ていると、とてもそれでOKになるとは思えない。むしろ、集団に影響されて悪い方向に行くこともあるし、イジメなんかがあった場合は、人間不信になってしまうことすらある。だとすると、無造作に集団の中に放り込めば(現実はそうなっているが…)自然と人間性が磨かれるというものでもないようだ。うまく集団と関わっていくには、まず「個の確立」が必要になってくる。自分を守れるのは自分だけだからだ。自分というものが無いまま何となく集団にいるのは、その影響力を考えるとむしろ危険だ。出来れば集団云々の前に、自ら依って立つ所の“基礎土台”部分を固めておく作業をしておきたい所だ。つまり、集団への所属をいい人間修養の場にしたいなら、まずは、自分というものをしっかり持つ所から始める方がいいという事だ。
日本の場合、保育園幼稚園ぐらいから集団活動をさせられるが、そこから集団に対する調和を求められる生活が始まる。その求めが強すぎると、集団から自分がどう見られているのかが強く意識させられ、良く見られたいという欲求が必然的に出てくる。もちろん、そういう欲求や社会性は必要だが、「個」がしっかり確立する前に集団性を意識させられ過ぎると、人目ばかり気にする素地を作ってしまう恐れがある。そういう環境の中で、集団の同一性をそつなくクリアしていればいいのだが、何かまわりと違うことがあったり、成績が悪かったり、気が弱かったりすると、別視され疎外されることもあり、そうなると、そこからコンプレックスが生まれ、集団に馴染めず、徐々にその集団にはいられなくなってしまうことにもなりかねない。個の確立したもの同士が集まり意見を戦わせるのが、西欧型個人主義だとすると、個を全体に調和させることを重視するものが集まって異質なものを排除するのが、これまでの日本型集団主義といえる。
とにかく、日本では個人と集団の関係がうまくいっていない。不登校や引きこもりの問題もその延長線上にある。それはそうだろう。個の確立が覚束ない状態で、集団の中に放り込まれて周囲に合わせることを求められるのだから、その対応は3つに分かれるしかない。即ち、その集団に馴染んでいくか、我慢するか、ドロップアウトするか。自分を持っていれば、集団の中にあっても自分でいられて、例え馴染めなくても対応できるが、自分が無ければそうもいかない。では、どうすればいいのか。端的にいうと「自分の意見を持ち、それを自分の言葉で表現できる」ということが、個を確立する上での前提条件となるが、その自分の意見を持つには、本を読み情報を咀嚼して思索する行為が不可欠となる。その上で、自分を獲得していく作業は、「自分は何者で、何処に向かっているのか。」を把握選択するところから始まる。というのも、個を確立するということは、単に自我と意志を持つだけでなく、これだけは譲れないという自分の存在意義を持つことでもあるからだ。
何が言いたいかというと、これからの時代は、益々人間性が重要になってくる。それを養うには、人間関係が欠かせない。しかし、個と集団の関係がうまくいっていない現状がある。その要因として、個の確立が不十分なまま集団に放り込まれていることが少なからず影響している。個の確立が停滞すれば、人間性の醸成もおぼつかなくなってくる。やりたいことも見つけにくいし、意欲も低下して、集団活動そのものが危うくなってくる。そうなれば、AIがどうこう以前に社会自体がおかしくなってくる。「まずは個の確立から」という意味がここにある。
人類の試行錯誤
人間といっても、初期の頃は他の動物とそれほどかわりがなく、本能が支配する弱肉強食の世界でした。そこから集団で生活するようになると、本能に任せているだけでは争いごとが生じてうまくいかなくなり、人間の特徴である理性を働かせて本能からくる欲望をある程度制御するようになってきました。それによって集団生活がスムーズになり、人間らしい文化の発展につながっていったと考えられます。
しかし、集団がいくつもできて互いの利益が衝突するようになると、本来集団をまとめていたはずの“理性”によって、逆に集団間の争いが生じるようになりました。自分の集団の利益を得る為に他の集団の利益を奪うという行為は、ただ本能に従っているというより損得勘定による理性の仕業といえます。そうなりますと、本能を制御する役割としての理性をもってしても、争いごとは無くならないことになります。理性を持った人間だけが、同胞同士殺し合い自らも命を絶つ行為をすることを考えると、むしろ、理性があるがゆえに争いごとがエスカレートしているとも言えます。
そこで今度は、あてにならない理性の監視役として、その上位に宗教や思想哲学などを置くようになりました。つまり、その教えを判断基準の軸に持ってきて理性の先生とし、それを守ることによって理性の過ちを正そうとしました。例えば、中国の儒教などは近代まで東アジアの倫理道徳観念に多大な影響を及ぼしました。理性の上位に孔子の教えを置くことによって、気まぐれな理性が誤ちを犯すのを制御しようとしたわけです。しかしそれは、時の権力者によってその統治にうまく利用されてきた経緯がありますし、「論語読みの論語読まず」といった言葉があるように、その実践は容易ではありませんでした。むしろ、その思想や宗教の違いによって争いが生じるようになると、もはやそれだけではうまくいかないことが明らかになってきました。
そこで、あらたに哲学が注目されるようになってきました。哲学そのものは昔からありましたが、そのイメージは難解で近寄りがたく、単なる思考の遊戯であって実社会の生活には役に立たないものと受け取られがちでした。しかし、近年の政治哲学の分野からの主張は、現実生活での判断基準として指標になりうるものが提示されるようになってきました。例えば、ベンサムの功利主義、ロールズのリベラリズム、サンデルのコミュニタリアニズム(共同体主義)といったもので、その選択如何で現実の生活が大きく影響される点が、これまでの哲学とは違っていました。しかし、どれも一長一短あって、全ての人が納得できるものではありませんでした。このように哲学も、宗教に代わって理性の主人として人類共通の規範を提示できるまでには至っていないといえます。
西洋は、本能の野獣に従っていては争いごとが絶えないのを見て、理性によってそれを制御する道を選びました。しかし、その理性によって戦争が行われている現実を見て、宗教にその制御の役割を期待しました。しかし、その宗教の名の下に戦争が行われているのを見て、今度は哲学にその制御の役割を期待しました。しかし、哲学はそれぞれの主義主張の中から最適解を選ぶことが出来ず、異なる主義の間で争うことになってしまいました。結局のところ、中世では騎士道が、近代ではジェントルマンという理想像が、社会における一定の規範を形成してきましたが、その効力も薄れモラルハザードが深刻になってきて完全に行き詰ったといえます。
東洋は、理性よりも感性を重んじてきました。何より、欲望を理性で完全に制御することは出来ないことを知っているので、欲望とどううまく折り合いをつけるかを探求してきました。基本的に礼節を重んじ相手を気遣う文化なので、戦国時代とかはあるにせよ、西洋の帝国主義が入ってくるまでは概ね平和に暮らしていました。又、東洋の主要な宗教の一つである仏教が原因の戦争は起こっていないといわれています。西洋の知識人が、この東洋哲学から学ぼうとして盛んにアプローチしてきた時代もありました。しかし現在、かつての美徳は影をひそめ、哲学や宗教もその影響力をうまく活かせていません。
その後、西洋東洋の枠組みを超えた、それらを包括するグローバリズムの中で均質化が進み、国境を越えたコスモポリタン(世界市民)を生みだし、ついに世界をまとめる普遍的な価値観が現れたかと期待されましたが、それはアメリカの世界戦略の中のアメリカ化に過ぎなかったがゆえに、結局、普遍性を獲得することが出来ませんでした。アメリカの力が相対的に低下すると同時にその勢いを失い、世界は又、専制主義国家と民主主義国家に分断され反目する歴史に押し戻されようとしています。しかしながら、専制主義から民主主義へと変遷してきた経緯を考えると、今のところ人類にとっては民主主義の方が好ましいといえます。とはいえ、民主主義も現時点で他よりマシというだけであって、決して最善とはいえません。むしろ、問題が多すぎてこれに代わるものがあるなら早く教えてほしいぐらいです。そんな問題児の民主主義ですが、その内側では保守とリベラルに分かれて激しく主導権争いをしてきました。リベラルが理想を求めた政治思想なら、そこが人類の現時点での到達点なのだろうか。いや、日本やアメリカの現状を見ていると、とても到達点と呼べるようなシロモノではないようにも思われます。人類は、有史以来試行錯誤を重ねてきて、ようやく民主主義まで辿り着きました。もう専制主義には戻れません。もしも万が一、民主主義が人類の最終到達点だとしたら、後はその主権者である民衆がそれに相応しい民度と良識を備えるしかありません。それが出来ずに又過ちを繰り返すようだと、今度はもう人類存続のチャンスは無いかもしれません。
衰退する想像力
現代の情報量の多さはどうだろう。テレビ、インターネット等その「進歩」は目覚ましいものがある。情報量の多さが豊かな感性と比例するなら、この進歩は諸手を上げて賛成だが実際どうだろう。テレビもネットも無い時代に豊かな感性の作品が多く創られているのに対して、情報量豊かな現代の感性は逆に減退しているのではないかと思われるふしがある。つまり、豊かな情報=豊かな感性とはいかないのだ。むしろ、至れり尽くせりの情報量の多さが、かえって豊かな感性の醸成を阻害している。豊かな感性というのは、言葉を代えれば豊かな想像力ということだ。情報量が圧倒的に不足していた時代は、その不足分を豊かな想像力で補う必要性に迫られる。そうして鍛えられた想像力は、他者の苦悩の理解にも及ぶ。近年の事件の背景には、他者への想像力の欠如があるという見方もできる。情報量が多いということは、想像力を発揮する余地が少なくなるのでその分鍛えることが出来ない。つまり、こと「想像力を養う」という観点だけでみれば、情報は少し足りないぐらいでちょうどいいのだ。何かが足りないから、それを補おうとして想像力を働かせる。結果的に想像力が鍛えられる。
テレビ、ラジオ以前の基本情報媒体である書籍は、想像力を養うのに最適なメディアだろう。読書というのは、活字のみの情報でえがかれた情景をイメージしながら、作者の言わんとするところを行間から読み取っていくというすこぶる想像力のいる作業だ。おのずと、一を聞いて十を知るといった感性が磨かれる。しかし残念なことに、本はテレビやネット動画の出現によって、特に大衆の間で読まれなくなってきた。そのことの影響は計り知れない。
音楽は、表現方法として音を用いる。聴き手はそこから情景をイメージする。これも、想像力を養うにはいい。へたな映像があるよりも、よほど壮大な空間をイメージすることができる。
絵や写真は、その瞬間の静止状態のみのメディアだ。情報が限られているので、その事柄の背景や次の展開を想像する作業が必要になる。場合によっては、その場面の音や匂いもイメージできる。つまり、とっても想像力を掻き立てる媒体といえよう。
これに動きがついて音も一緒に出れば、テレビやネット動画、映画の世界になる。情報量が一気に増えて、受け取る側からすれば事の顛末がすべて見てとれるのでこれ以上判りやすいメディアも無いだろう。しかし、情報が整い過ぎて想像力を発揮する余地があまり無い。次から次へと情報が飛び込んできて、それを咀嚼して自分なりに解釈して何らかの答えを出す、なんていう時間も余裕も無い。一方的に情報を受け取る受身の状態が長く続けば、軽い思考停止状態になってしまう。つまり、至れり尽くせりの情報提供というのは、想像力の発達という観点からみればあまり歓迎できないのだ。
テレビもネットも無い時代の豊かな芸術作品の数々は、むしろ、それらが無かったから生まれたという見方もできるだろう。携帯で、テレビもネット動画も見ることができる時代というのは、本当に人間にとっていいことなのだろうか。皮肉なことに、科学の進歩が逆に豊かな人間力を後退させているとしたら…。科学の進歩=人間の幸福と信じている人には、受け入れられないことかもしれないが。
日本の雇用
これまでは、やりたい事なんて判らなくてもとりあえず高校、大学と進めばそれなりの会社に就職できて定年まで勤めることができました。しかし、今は(2024年現在)大学を出ても就職できるとは限らないし、就職できたとしても何時職を失うか判らない時代になりました。むしろ、就職して年金をもらえる年齢になるまでのおよそ40年間を、一つの会社で全う出来るとは考えないほうがいいでしょう。つまりこれは、いつでも転職できるだけの個人としての武器を磨いておかないと、来るべきリスク(AIの台頭含む)に対応出来ないことを意味しています。
スキルを磨くには、やりたいことを明確にする必要がありますが、経験の乏しい若いうちは、それが思いのほか難しいものです。それが30歳を過ぎたぐらいになると、社会に揉まれていろいろ経験が蓄積してきて、自分の適性ややりたいことなんかがおぼろげながら見えてきます。それが、これまでやってきたことの延長線上にあるものならいいのですが、まったくの一からとなると問題がでてきます。というのも、日本では、35歳を過ぎて転職しようとするとその職種の経験を問われます。つまり、それまでいろんな経験をして35になってやっと自分のやりたいことを見つけても、それが未経験の分野であった場合、社会の門戸はかなり閉じられているということです。さらに日本では、新卒か第二新卒を逃すと正社員での就職が極端に難しくなります。つまり、日本は未経験転職が簡単ではない社会なので、経験の少ない10代、20代で選択した職業が、人生全般を制約しかねないということです。もちろん、自分で起業するという選択もありますが、日本はある程度の規模と知名度が無いと相手にしてもらえない風土なので、起業する環境としては決していいとは言えません。結局、若者が夢を持てず、やりたい事というより公務員等の安定志向に走りがちになっています。それでも、公務員や企業に就職できればいいですが、結局なれずにやむをえず非正規労働者になる人も増えてきました。そんな事では仕事にやりがいなんて持てるはずもなく、そんな人々で構成された社会に夢や希望があるはずもありません。
欲を言えば、経験の乏しい若い時に正解を見つけるのは難しいので、20代は自由に暴れまわっていろんな体験をし、それをもとに30代で結論を出すぐらいの余裕がほしいところです。それには、もっと自由に転職できる社会環境が必要になります。「結論は出たが職が無い」ではどうしようもないからです。再就職を妨げている要因の一つに、正社員が守られ過ぎているということがあります。会社の立場からすると、社員を簡単に解雇出来ないので採用は慎重にならざるをえません。もっと、解雇のハードルを下げることができれば、閉塞感のある転職市場が活発になり、簡単にクビを切られる代わりに再就職も容易になるという、いい意味での流動的な社会が出現するのではないでしょうか。というのも、社員側からすると、再就職が難しいので合っていない会社でも辞められないというのは不幸だし、会社側からすると、戦力になっていない社員を容易に解雇出来ないのは不幸でしょう。又、人員削減時に、厳格な手続きの必要があるので、まずは好条件を付けて希望退職を募ることになりますが、その場合、一概には言えませんが、何処でもやっていける能力のある人は出ていき、ここを出たら行き場のない人が残ります。その際、高い技術を持った社員がライバルの国や会社に流れ、さらに自らの首を絞める結果になっています。解雇のハードルを下げることは、そうした悪循環を抑える意味合いもあります。会社は、もう無条件で社員を守ってくれないので、労働者側も意識をアップデートしてリスクヘッジしていかないと生き残っていけない時代になりました。
乱世の価値観
人は、基本的に自分が考え判断したことは正しいと思っている。というよりも、正しいと思ったからこそ、その判断を下している。時に、それと違う判断をした人を攻撃することすらある。しかし、その判断の拠りどころとなっているものが、必ずしも正しいとは限らない。人間は社会的動物なので、自分の身の回りの環境から様々な影響を受けていて、社会通念上の“普通・常識”というものを刷り込まれながら育ってきている。それは時代と共に変化していくものなので、何が正しいかは世代間で異なった認識となり、それぞれがそれぞれの色眼鏡をかけた状態で社会を見ることになる。その上で、それぞれが自分の見たいものを見て、信じたいものを信じて、そこに、アルゴリズムで自分の好みに沿ったネット情報が虚実入り混じりながらどんどん入ってくるのだから、もはや、何が正しいのか客観的な判断が出来なくなってきているし、世代間の分断も広がる一方になっている。それはそうだろう、互いに見ている景色がまったく違うのだから。そういう意味では、世界も、守旧派と改革派、専制主義と民主主義等で分断されていて、分かり合えなくなってきている。お互いに、自分の考えは正しいと固く信じて他方を否定しているのだから、分かり合えるはずもない。歴史には流れがあって、本来あるべき姿に収束していくものなら、流れに任せていたらいいのだが、それが必ずしも理想的なものとは限らないので、そこに人間の意志を介在させる必要がある。もちろん、万民が同意できるものを提示できるならそれに越したことはないが、当面は難しそうなので、今のところは違いを認めた上で共存していくしかない。
普通やあたりまえという概念は、その時代の状態によって構成されているので、時代によって変化していくことになる。ある時代では普通のことが、別の時代では異常なことになるわけだ。ゆえに、その時代に起こったことを、別の時代の価値観に当てはめて正義と悪の2元論で評価しようとしても無理がある。つまり、その時代に行われたことの評価は、その時代の価値観を基に行うべきで、今の価値観を当てはめてその時代の行為を評価しても正確なジャッジは出来ないということだ。これらを踏まえた上で、戦国時代の正義と平和な時代の正義を考えた場合どうなるか。例えば、戦国時代にAの国が攻めてきてBの国が滅んだとしたら、世間の見方は、それは侵略というより普通の行為であり、勝った方はその強さを称賛され、負けた方はその弱さゆえの自己責任ということで顧みられることもない。まさに「力こそが正義」の時代だ。この前提があるから、大勢の人を殺したアレクサンドロス大王やカエサル、ナポレオンが英雄になるわけで、織田信長や豊臣秀吉なども多くの人を殺したが人気の武将になっている。もし、現代に織田信長がいて同じことをやったら、英雄どころか犯罪者として裁かれることになるだろう。「法こそが正義」の時代だからだ。
武力を使って領土を拡大するという行為は、人類の発展過程では普通に行われていた。というよりも、人類の歴史そのものといっていい。戦国時代は、特に激しく衝突が起きた時代というに過ぎない。人類は、この争いを繰り返してきた。力で相手を屈服させ、支配し、搾取するという構図だ。この原理が、第二次世界大戦の終わりまで続いていた。しかし、二度の大戦を経て、人類はその間違いに気づき反省し、力による支配から法による秩序の構築に舵をきった。つまり、「乱世だからしょうがない」を止めましょうということになった。国際法を基にして、それまでやっていた、力で他国の領土を奪う行為を止めましょうということになった(少なくとも日米欧の間では)。戦前と戦後で価値観の転換がはかられたということだ。これは簡単なことではない。考えてみれば、自然界では弱肉強食は自然の摂理だ。流れに任せたら自然とそうなるように出来ている。それに人間性と法で抗おうというのだから、それなりの意志が必要になる。「もうあの乱世に戻してはならない」という固い決意から出発し、米ソ冷戦を乗り越えて国際社会は、力による支配から法による支配という価値観を共有してきた。もちろん、いざこざはある。朝鮮戦争、旧ソ連のアフガニスタン侵攻、イラクのクウェート侵攻などは乱世の価値観からくるもので、これを許したら世界が又乱世になってしまうということで、国際社会が懸命に阻止した。問題は、世界のトレンド潮流が、乱世の価値観か治世の価値観かということだ。これまでの世界のトレンドは、欧米によって決められてきた。欧米が帝国主義だといえば世界がそうなったし、欧米がグローバリズムだといえばそうなった。しかし、世界のパワーバランスが多様な様相を見せている現在においては、欧米のみで国際潮流を決めることは出来なくなった。それゆえに、乱世の価値観を再び世界の潮流にしようとする兆候があった場合は、国際社会が結束してその芽を摘む必要がある。その意味で、ロシアによるウクライナ侵攻は、これを許したら乱世の論理が再び復活することになり、世界のあちこちで同じような紛争が起こる危険があるので絶対に容認できないとして、日米欧がウクライナを支援している。当然日本も、他人事では無いことが分かっている。一旦、乱世になってしまったら、自分だけ「憲法9条があるから戦争しません」と決め込んでも、そんなことお構いなしに完全に巻き込まれていくだろう。殺らないと殺られるという悪循環に陥り、行き着くところまで行ってしまう危険があるのだ。核兵器を手にしてしまった人類にとって「行き着くところまで」の意味は、かつての意味とはまったく違うことは言うまでもない。
ピュアオーディオの行方
好きな音楽をいい音で聴きたいという欲求は、多かれ少なかれ誰しも持つ自然な願望だろう。80年代の日本は、その欲求を叶えてくれる「オーディオ」の黄金期だった。家電量販店には、アンプやカセットデッキなど各種オーディオ機器がずらりと並び、スピーカーの試聴コーナーには内外のブランドがひしめきあって並んでいた。中学高校ぐらいになると皆、オーディオコンポを欲しがったものだ。しかし、その後2000年代に入った頃から、ピュアオーディオの分野は凋落の一途を辿ることになる。メーカーは次々に撤退し、家電量販店からピュアオーディオ機器の姿が消えていった。今のオーディオコーナーは、申し訳程度にミニコンポが置いてあるといった感じだ。2chステレオ再生のピュアオーディオの分野は、一部のコアなマニアを対象として、大都市の家電量販店や専門店に行かなければスピーカーの試聴も出来なくなった。しかし、考えてもみれば、アナログの時代は機器の性能がそのまま音の良し悪しに直結していたので、ある程度お金をかけないといい音で聴けなかったが、デジタルになればそれほどお金をかけなくてもそれなりにいい音で聴けるようになった。小型スピーカーでも、サブウーファーを使えば低音不足は解消できる。必然的に、ミニコンポで十分となった。5万も出せばそれなりの音で聴けるだろう。住宅事情もある。これまでは、一軒家が比較的多かったので、大きなスピーカーを置くスペースも確保しやすかったし、ある程度の音量で聴けたが、昨今ではマンションや団地、アパートといった集合住宅形式が多いのでスペースも無いし、大きな音も出せない為、必然的にサイズの制約を受けることになる。そこに、あえてお金を出してピュアオーディオとなると、そこからは完全に趣味の世界だ。昔の名曲喫茶やジャズ喫茶に入り浸っていたような中高年が、経済的に余裕が出てきて、昔買えなかった高級オーディオのパトロンとなったり、ここにきて、レコードや昭和歌謡が見直されたりしていることもあって、新たにオーディオを趣味にしようとする若者も出てきたりして、若干持ち直してきてはいるが、それでも、かつての勢いを取り戻すことは期待できそうにない。
サブスク含めたネットワーク音源をPC+アクティブスピーカーで聴く時代に、何を今更という感もあるかもしれないが、そもそも、高級オーディオを買う人は何に対してそれだけのお金を払っているのだろう。音楽を聴くだけなら、ミニコンポでもスマホでも一通りは聴ける。もちろん、それで満足できないから高いお金を払って高級オーディオを買うわけだが、100万の差って何だろうと思ってしまう。推測するに、ミニコンポにはない感性に訴えかける「何ものか」があるということであり、その「何ものか」に100万の価値があると思えば惜しみなく払うということだ。つまり、コスト優先のミニコンポが削り取ったものはその「何ものか」であり、高級オーディオがこだわったものもその「何ものか」であるということだ。そして消費者に、その「何ものか」が欲しければ金を出せと迫っているのだ。まあ、その理屈は経済活動の常道といえるだろう。「何ものか」とは付加価値の高さであり、ライバルに打ち勝つ差別化を意味する。商品に「こだわりの」と付けば当然、少し高くなるが、そのこだわりの部分と価格上昇分との間に妥当性があると消費者が思えば高くても買う。当然そこには、見た目の所有欲を満たすという要素も含まれている。それはスーパーカーと同じだ。とはいっても、財布の許す範囲でということになる。いくら、価格上昇分に妥当性があると思っても、買う人に経済力がなければ買うことは出来ない。そこで、大抵の業界では中流層を視野に入れて、少し背伸びをすれば手の届く範囲にこだわりの商品をそろえているのが一般的だ。しかし、ピュアオーディオの分野はその「一般的」な業界ではなくなってきている。それなりの機器を揃えようとしたら、けっこう高額になるのだ。つまり、中流層の人が、こだわりのあるちょっといい商品を少し背伸びして購入したいと思ったら、それなりの覚悟がいる。そう、沼にはまってもいい覚悟だ。
ただ、ちょっと気になったのは、日本メーカーの惨状に比べて海外のメーカーは結構生き残っているということだ。好きな音楽をいい音で聴くということに関して、海外と日本では感覚が違うのではないかとさえ思えてしまう。欧米の人にとって音楽というのは、単なる趣味趣向を越えて、人生を豊かに彩る上で欠かせないアートの一つとしてそれなりの地位を獲得しているように思う。ゆえに、それを聴く為の装置であるオーディオもおざなりにはされていないということだ。その点、日本ではそれほどの地位を得ていないので、とりあえず聴ければいいということになりがちだ。しかし、音楽というのは娯楽の域を超えて、人間の感性に関わる重要な分野だけに、AIが創ったような打ち込み系の音楽が巷に溢れ、深みの無いチープな音を日常的に聴く状況は、情緒を育む上でいかがなものかと思うのだがどうだろう。
ライフワークと生きた証
フリーターという生き方がある。一見、自由な感じがするが、実際のところどうなのか。その中には、「正社員になりたいけど、なれずに仕方なく。」という人もいれば、「こういうスタイルが性に合っている。」という人もいる。ただ、いえることは、ほとんどの場合、お金を稼ぐ必要に迫られて出来ればやりたくない仕事をしぶしぶしているということだ。その仕事内容は、未経験でもすぐできてしまうような簡単な内容が多く、その職場で「自分でなければ出来ない」といったアイデンティティを確認できるような充実感を得ることは期待しにくい。つまり、特に自分がそれをやらなくてはならないという個別性はなく、誰がやってもいいのだがたまたま自分がそれをやっている、自分が辞めても次に誰か入ってきてその穴を埋めるだけ、という状況だ。それは仕事というよりも労働であって、収入を得る為の手段として義務的に体を動かしているに過ぎない。果たしてそれで、満足のいく人生を送っていると言えるだろうか。
世の中には、自分にしか出来ないことがある。自分だから出来ることがある。ゆえに、人と比べても仕方がない。考えてもみれば、自分とまったく同じ経験、体験、考え方、環境、興味、性格、知識、技術、容姿の人はこの世にいない訳で、そこから紡がれる作品、接客、パフォーマンス、演技、自分の意見も唯一無二のものだ。仮に、10年何かに注力すれば、そこから生み出されるものは自分独自のものといっても過言ではないだろう。後は、それをどう世間に認知してもらうかだ。人里離れた山奥で、こっそり何かをやっていても、世間に知られなければそれは無かったことになってしまう。単なる自己満足であったとしても、人には承認欲求というものがあるので、自分の渾身の作品が出来上がったのに、それが誰にも知られることなく、何の役にも立たずに埋没してしまうのは忍びないものなのだ。
「生きた証をこの世に残したい」という言葉を聞くことがある。何をもって生きた証とするかは人によって異なるが、そこには、形に残るものだけでなく、近しい人に感謝され記憶に残ることも含まれるし、今の時代なら、SNSや動画投稿サイトへの配信も候補に入ってくるだろう。そういう意味では、生きた証を残しやすい環境にはなった。日常のありふれた生活の一コマを配信しているだけであっても、それを多くの人に見てもらって喜んでもらうこともできる。「これが私の生きた証だ」と言われれば誰も否定できない。もちろん、何を生きた証にするかは本人が決めることであって、第三者がどうこういうことではない。それを承知の上で、その定義をもう少し絞り込んでみたい。90年の人生をただ恙なく生きたというだけなら、狭義の意味で生きた証を残したとは言いにくい。自分がある時期この地球上に存在して活動したことで、社会にどんな影響を与えることが出来、その人々の幸福にどれだけ貢献することが出来たか。そんな、何か社会に有益な貢献がもたらされたといえるような有形無形の成果物があって初めて、狭義の生きた証を残したといえるのではないか。だとすると、それは通常の趣味や仕事の範疇を超えて「ライフワーク」の領域に入ってくる。
あなたのライフワークは何ですか?これに即答できるようなら、その人は満足の人生を送れる可能性が高い。逆に、答えられないようなら、そのままでいくと後悔の人生になるかもしれない。それはそうだろう。自分のやるべき事が分かった上で人生の歩みを進めているのと、それが分かっていない状態で闇雲に生きているのとでは、その後の結果は歴然だ。とすれば、人生における最も重要な事柄の一つは、「自分のライフワークを見つける事」と言っても過言ではない。
事がライフワークとなると、短い人生の中であれもこれもとはいかないので、ある程度、「選択と集中」ということが必要になる。しかし、世の中に無数に存在する職業や社会的課題の中から、ライフワークと呼べるものを見つけ出すのは至難の業だ。自分の一生を懸けて継続的に取り組む課題ゆえに、そう簡単には見つからない。まさに、その選択は人生の一大事業だ。例えば、大学時代の就活時に自己分析して「ヤリタイコト」が見つかったとしても、恐らくそれはライフワークとはなりえないだろう。自分は何が好きで、何が得意で、何を優先するのか。それを20代前半で社会にも出ていない状況で、それなりの結論を出したところで、その後、社会に出て揉まれていろんな経験を重ねる中で自分の好き、得意、価値観も変化していくので、40代になる頃にはもうまったく違う考え方になっていても不思議ではないし、ほとんどの場合がそうだろう。それぐらい、ライフワークを見つけるという作業は難しい。それは、人生の荒波を乗り越えた先に見えてくるものなのかもしれない。しかし、そこが決まらないことには一つのことを深く掘り下げて探求することが出来ないし、その状態で人生の歩みを進めても、中途半端にあちこちつまみ食いして、挙句に何も残らない人生になってしまうかもしれない。「十年一剣を磨く」とか「道を極める」といっても、取り組む課題が分からなければやりようがない。ただ、それがライフワークかどうかを見分けるのは簡単だ。例えば、余命3か月と言われたとして、それでもそれをやりたいと思えるなら、それはライフワークと考えて差し支えないだろう。
結局のところは、その時が来た時に満足の人生だったと思えるかどうか。もし、現在そう思えそうにないなら、何かを変える必要がある。というのも、そのままでいけば、後悔の中で人生の最終章を迎えることになるかもしれないからだ。だからこそ、ライフワークを早めに見つけてそれに取り組む意義がある。それをやり切ってその時を迎えた時、生きた証を残せた=無意味な人生ではなかったとしみじみ実感できるのではないか。
正義と誹謗中傷
近年、SNS等における誹謗中傷が問題になってきている。そこにおいては、事の真相がどうとかはあまり関係なく、自分が信じたい情報を信じ、信じたくない情報はスルーする中で、自分なりの正義を持ち、それと違ったほうを攻撃する。自分は正義で正しいと固く思っているのだから、そこから発生する行動はすべて正義ということになり、悪いことをしているという感覚はない。これは、自分が信じたいものを信じて、そうじゃない方を否定し、自分の考えと違うものを許さないという非寛容の国民が増えてきたことを物語っているように思える。正義を振りかざして自分と違う意見や考えを攻撃する人に聞きたいが、その正義は何処から来ているのか。自分なりの思想や信念があってのことなのか。それとも、ネット情報を鵜呑みにしてのことなのか。思想という点では、日本人は無思想の国民と言われているし、ネット情報に関しては虚実入り混じった不確かな情報が飛び交っている。つまり、あやふやな情報を基に自分の考えで作られた、その人にとっての正義ということか。それは、とてもじゃないが公正な判断とは言えないだろう。不確かな情報を基にして、自分なりに白黒つけて、そんな正義を自信満々に振りかざして自分が黒と判定した方を攻撃するというのは、とても正常な社会とはいえまい。中世の魔女狩りのようなことが、この現代社会で繰り広げられていいのか。
それにしても、そもそもどんな人がそんなことをしているのか。夢・目標があってそれに向かってがむしゃらに努力している人、夢・目標を実現して充実の人生を送っている人、ライフワークを持っていて日々頑張っている人がそんなことをするだろうか。いや、そんな暇があるだろうか。夢が無いか夢破れた人が、自分の人生に対して不満を持っていて、その鬱憤をこんな形で晴らしているのだとすれば、それは正義でもなんでもなく、ただの憂さ晴らしに過ぎない。誹謗中傷が問題になっているということは、不本意な人生を歩んでいる人が少なくないということを図らずも表していると言えるだろう。性善説も性悪説も人間の一面を表しているに過ぎなくて、良心と悪意が共存しているのが人間という生き物の実相といえる。ゆえに、誰でも加害者側になる可能性があるし、被害者になる可能性もあるということになる。
群衆は、常にバッシングする生贄を求めていて、誰かがうっかり池に落ちたら、みんなで寄ってたかって棒で叩きまくるのだ。「人の不幸は蜜の味」ということわざがあるが、そんな人間の心理を言い当てている。自分は変わらなくても、他人が罰を受けて落ち込んだら相対的に自分が浮上するので、自分が不本意な状態にあればあるほど他人の不幸を求めてしまう。いつの時代も、現状に不満を持つ人はいるので、この先も誹謗中傷が止むことはないだろう。それを止めたければ、全員に「座右の銘」と「ライフワーク」を持たせるしかないのではないか。なにせ、座右の銘があれば、自分の心を師として自分の心に従って行動していたのが、その自分の心の上位に自分を戒めるところの座右の銘を置くことになるので、一定の自制が出来るようになるし、ライフワークがあれば忙しくてそんな投稿をしている暇なんてないのだから。
人類が生き残るには
人類の歴史は、治世と乱世を繰り返してきた。しかし、次に乱世となったら、つまり第三次世界大戦となったら、その火力はこれまでと比較にならないので、人類は滅んでしまうかもしれない。ただ、地球上の生物は絶滅と進化を繰り返してきたので、地球から見れば“滅ぶ”と聞いても「又いつもの事か」と思うだけだろうし、むしろ、人類の傍若無人ぶりに辟易して「いっそ滅んでしまえ」と思っているかもしれない。しかし、当事者にとっては存亡の一大事で、そんな他人事のように思うことは出来ない。今は、トランプ大統領の「自国第一主義」に見られるように、国益優先が国際社会のスタンダードになってきていて、右傾化が危惧されているが、そんなことでは遅かれ早かれ又乱世になるかもしれない。それはそうだろう、自分たちのことばかり考えて、自分たちに都合がいい主張をぶつけ合えば、衝突は避けられない。政治の延長線上に戦争があるのだとすれば、必然的に武力衝突も起こり得る。それは、国益の衝突によって戦争が行われてきた歴史を見れば明らかだ。第二次世界大戦の戦勝国が牛耳っている国連も機能していない中で、普遍的な価値観を人類が共有しない限りその流れは止められないだろう。
では、果たして人類は、共通の価値観を共有することが出来るのか。それは可能なのか。結論からいうと、理論的には可能だ。というのも、人類が善としているもの、例えば、仏教の慈悲若しくは利他の精神、キリスト教の隣人愛等、宗教の世界で共通の価値観となっているのは、「他者の幸福に貢献することが善で、自己の利益の為に他者を犠牲にすることは悪」ということになっているからだ。そこを軸にして、普遍的な価値観を共有することは可能だ。これは国家にも当てはまる。「他国の幸福に貢献することが善で、自国の利益の為に他国を犠牲にすることは悪」ということになる。これでいけば、他国を侵略する行為は、自国の利益の為に他国を犠牲にすることになるので、倫理の上では出来ないことになる。
しかし、現実の世界をこの原理で動かすのは容易ではない。それは、資本主義的競争社会の原理は弱肉強食であって、自分の利益の為に他者と激しい競争を繰り広げ、勝ったものが生き残るというシステムになっているからだ。そこでは、負けたのはその努力が足りないからで自業自得ということになる。それはもはや乱世の価値観であって、自分が生き残る為に他者を蹴落とす行為に他ならない。それが悪だというなら、現世界は悪の価値観が跋扈した社会ということになり、それを変えるには、社会システムそのものを変え、みんな平等に競争の無い社会を実現するしかないということになる。それで出てきたのがマルクスの資本論、共産党宣言であり、マルクスレーニン主義はその理想を目指したが、人間というものが分かっていなかった為頓挫した。人間は、頑張っても給料が同じなら頑張らないので、経済は発展しないし、プロレタリア独裁といっても、実際独裁している政治家はプロレタリアでもなんでもなく、支配階級が共産党に代わっただけで歴代の皇帝がいた時代とさほど変わりがない。むしろ、矛盾が多く、体制を維持する為に言論の自由を制限する必要があるので、中世より締め付けがきつくならざるを得ない。そんな、矛盾だらけの体制が長続きするはずもない。ほどなくして、ソ連を始めとしてほとんどの社会主義国家が瓦解していくことになる。そうなると、資本主義も社会主義も理想的なシステムではないということになるが、辛うじて資本主義の方がまだましということで、世界中で採用されているのが現状だ。その中で、かなり社会主義的な要素の濃い資本主義国もあり、北欧の福祉国家はその例になる。ゆりかごから墓場までという手厚い保護で生活をサポートしてくれる社会は、一つの理想になるかもしれない。日本もかつて、高度経済成長期に一億総中流、国民皆保険を実現して「最も成功した社会主義国家」と言われた時代もあった。
資本主義の社会は、競争社会であって、富をより多く得る競争に明け暮れている。人を蹴落としてでも手に入れようとしているのは、お金や物、ステータスといったもので資本主義がその欲望を煽っている構図だ。これの究極が戦国時代で、のんびりしていて攻め込まれた場合、のんびりしていた方が悪いという解釈になる。悪の基準が低下していて、自分の利益の為に他者を犠牲にして何が悪いという意識が蔓延している社会だ。競争によって人類が進歩し、それによってより良い暮らしを手に入れてきた事実は否定しないが、これ以上進歩しても幸福度はさほど変わらないのだとしたら、もうこの辺でスローダウンしてもいいのではないか。人間の幸福と年収の関係で、年収約750万を超えるとそれ以上はあまり幸福度が上がらないという研究結果が出ている。同じように、科学技術の発展と幸福の関係も、ある段階を過ぎるとそれ以上幸福度が上がらないだけでなく、場合によっては、逆に不幸を招くことも出てくるのではないか。そうなると、資本主義社会で飽くなき発展を驀進してきた根拠となる、社会の発展=人間の幸福という前提が崩れることになる。必要以上の便利さは、かえって人間を退化させ堕落させ、必要以上の欲望の刺激は依存症を招く。しかし、現実はその速度を緩めていない。むしろ、より速めている。それは、もはやそれが人間の幸福に繋がるかどうかは関係なくて、資本主義体制そのものによって、ムチが打たれ、有無を言わさず前進するしかない仕組みになっていることを物語っている。それは、あたかも泳ぎ続けないと死んでしまうサメやマグロのようなものだ。もちろん、医療や福祉、環境といったまだまだ問題山積で更なる進化を期待されている分野もある。そこには、AIの活用も絡んできている。癌の克服なんて人類の夢だろう。それなら、これからの科学技術の進化は社会的課題の解決に向けられるべきで、野心家による売らんが為の欲望刺激商品の開発は、そろそろ抑制する段階に入ったのではないか。
アメリカは、混じりっけ無しの個人主義且つ競争社会だが、それでギスギスしないのは宗教的な倫理観、つまり他者の幸福に貢献する善人の原理を忘れていないからだろう。ボランティアや寄付の文化は、そうしたバックボーンが無いと育ち難いものだ。これが中国になると、ここも激しい競争社会であり格差社会でもあるが、倫理観というものが社会にあまり根づいていないので、「われ先に」といったサバンナの原理が巾を利かす結果になっている。一方、アジアとヨーロッパが交差するトルコでは、多様な民族や宗教が共存していることもあって、世俗主義で厳格な政教分離を採用している。さらに、異なる宗教間においても、互いの立場を尊重する共生のエートス(道徳的気風)があるとされている。つまり、自分の価値観をことさら相手に強要するのではなく、互いの価値観を認めて許容しあうことによって社会を成り立たせているのだ。個人の責任で勝ち負けが決まり、優劣がはっきり出る「競争社会」か、個人を尊重しながらも、困った時はお互い様で生きていこうとする「共生社会」か。もう選択の余地はあまり無いかもしれない。コスモポリタン(地球市民)が、人類の行き着く究極の理想だとしたら、その最初の一歩は違いを違いとして受け入れて、世界における多様性を認めるところから始まる。その先に、国、民族、文化、風習、宗教の異なる人々が集まって、宇宙船地球号の中で多少喧嘩もしながら互いを尊重しあって暮らしていける社会が開けてくる。
治世でありながら乱世の価値観で動いている社会というものは、自ずと限界がくる。自国が生き残る為には、他国を蹴落とすのもやむを得ないというロジックで動いていて何も起こらない訳がないからだ。かといって、資本主義社会を変えるのは難しいとなると、現体制のままで倫理観を構築するしかない。「恩に報いる」という倫理観だ。恩に報いるという倫理観が社会常識となれば、他者の幸福に貢献することで自己の利益を得るということが可能になる。万一、恩を受けた側に返す能力が無くても、感謝の念さえあれば周りまわって結局自己の利益になるからだ。もし、「恩を仇で返す」ということがまかり通ってしまえば、逆に不利益を被ることになるので、これを断じて許さないコンセンサスが必要になる。そうなると、善悪の線引きでは、他者の幸福に貢献することが善で、自己の利益の為に他者を犠牲にすることが悪となり、最優先の倫理観が「恩に報いる」となり、最も唾棄すべき行為が「恩を仇で返す」ということになる。これでいくと、他者の幸福に貢献する善が行われた場合、それを受けた側は恩を受けたことになる。それに対して、してくれた人の幸福に貢献することで返すか、それが出来ない場合でも感謝の意志を示すことは出来る。もし、逆にその人に対して、自己の利益の為にその人を犠牲にする悪で返す、つまり恩を仇で返すということが行われ、それが常態化したら、社会のシステムが回っていかなくなるので、そこだけは強く非難されなければならない。社会というのは、法律だけで制御されているのではなく、それ以外のモラルによるところが大きいのだ。
強い者が生き残るという人類の、いや生物界のスタンダードでは人類は滅亡するのだとしたら、それに代わるものを打ち立てなくてはならない。それには、善悪を定義して善を推奨し悪を罰する、そこに、恩に報いるという倫理観を加えて、それを世界中で承認し順守していくという人間にしかできない手法によるしかないように思う。善と悪の定義が明確になって、何が善で何が悪かが浮き彫りになれば、世界の色分けもはっきりする。つまり、何処の国が善で何処の国が悪かが。それが曖昧なのは、資本主義的弱肉強食の競争社会では、自国が生き残る為に他国を蹴落とすことが、良いことではないにせよ、そんなに悪いことでもない普通のこととして認識されているからだ。これを許せば、拡大解釈されて、自国の発展の為に強い国が弱い国を傘下に収めることは普通のこととされてしまう。それは、戦前の帝国主義が吹き荒れた悪夢の再来を意味する。弱肉強食は乱世の価値観だが、治世でありながら弱肉強食の価値観になっている現在の姿を危惧する。経済と軍事は別という人がいるかもしれないが、過去の戦争は恐慌等の経済問題が絡んで起こっており、決して分けて考えることは出来ない。自分の国を愛するというのは自然な感情で、誰かから強要されるものでもないように思うが、これが乱世になると、自国を守り発展させる為には、他国を踏み台にしたり犠牲にするのもやむを得ないということになってくる。過去の戦争が、自存自衛の為にという大義名分で行われてきたことを思うと、愛国という言葉は、為政者によって利用されてきたと言わざるを得ない。いつの時代も、偏狭なナショナリズム(国家主義)は、やがて周辺諸国と摩擦を引き起こす基になる。
善と悪を定義したとしても、悪と分かっていてそれをする人は出てくる。現在でも犯罪者はいて、その大部分は、その行為が悪いことと分かった上で行われている。それは、基本的に犯人が事件現場から逃走することからも分かる。むしろ、問題なのはその善悪の定義よりも上位に置く、若しくは優先する思想、主義があって、その為なら殺人すら正当化されるということだ。殺人は悪ということはどの社会でも共通していて、それを行えば法律によって処罰されることになる。しかし、戦争になると殺人が合法化され、むしろ国によって推奨され、より多く殺した人が英雄として称賛されるという逆転の状況が生まれる。それは、殺人の善悪よりも国家の存亡の方が優先されているからに他ならない。結局、みんな自分のことばかり考えていて、それが当たり前になっている。他者の為に行動しようとすると、偽善者の疑いすらかけられる。それでも、経済がうまくいっている時は、それぞれの地域で平穏な生活が営まれるが、一旦悪くなってそれが世界的に広がると、国家存亡の危機とばかりになりふり構わない行動に出る国が現れる。全ての国が、自分の国の利益しか考えなくなったら、ナショナリズムがぶつかり合って紛争に繋がる。そうなると、どちらが正しいかどうかは二の次になり、どちらが強いかどうかになる。そして、勝ったものが正義となるのだ。歴史は、全て勝ったものによって正当化されてきたからだ。例えば、動物の世界で干ばつになり餌が不足したら、動物の世界の不文律も関係なくなる。強い者が生き残り、弱い者は淘汰されていく。結局、動物の世界では強いということが正義なのだ。人間も、結局は動物の一員、世界が混乱したら最後は力がものをいう。そこでは倫理観も無力だ。善だ、悪だといっても関係ない。正義が勝つのではない。勝ったものが正義なのだ。ただし、人間の本来の姿というものがあり、それを無視した圧政は歪となって永く続かないということはある。これまでの歴史で、比較的正義と思われる勢力が勝ってきたのは、それが人間本来のありように適っており、ゆえにそこに住む人々に受け入れられていて、それを破壊されることを強く拒む動機があるほうが、有利に働いてきたということはあるかもしれない。
人間の基本は、安全と生活そして自由。これが保証されないと社会が不安定になり、流動的になる。安全は軍事で生活は経済そして自由は政治。つまり、この3つは人間社会の格子となっていて、人類が存続する限り何処までもついてくるものだ。そして、経済が火種となり民族の自由が脅かされて軍事衝突が起こるという歴史を繰り返してきた。カオスとコスモスの繰り返しが宇宙のありのままの姿だとすれば、これは必然なのかもしれないが、人類が持つ火力が先の大戦時と比べものにならない状況を考えると、自然に任せていたら恐らく人類は滅亡するしかないだろう。ゆえに、思想が要る。全人類の大半が合意できる思想が要る。それが共生の思想だ。それぞれの違いを認めて共に生きることだ。非暴力不服従のガンジー、公民権運動のキング牧師の譜系を辿ってそれを引き継いでいくことだ。日本はどうかと言えば、共生というよりも排除の論理が働いている。みんなと同じということが求められ、そこからはみ出ると、変な奴という目で見られて異質なものとして排除されていく。当然、出る杭は打たれるし、出ない杭は顧みられることなく淘汰されていく。その文化からは共生のエートス(道徳的気風)は生まれにくい。違いを認めて相手の立場を理解して共存の道を探っていく作業が、今こそ必要になってきた。つまり、日本は異質なものを排除する社会なので、異なる価値観を受け入れる素地が整っていない。しかし、人類がこれからも存続していく為には、それぞれの違いを認め合って相手を尊重し、共生するしかない。もちろん、他国の為となると難しいことも出てくるので、それは結局、回りまわって自国の為になると捉える必要がある。宇宙船で喧嘩して宇宙船が破壊されたら、結局乗組員全員が困ることになるからだ。
もちろん、思想を持つということは危険を孕んでいて、思想を持つがゆえにおかしくなることもある。人は、生まれながらに人間性と理性のブレーキを備えているので、非人道的な行為は基本的に抑制されるようになっているが、思想の酒に酔うと、狂信、妄信状態になり、タガが外れて暴走することがある。ゆえに、思想という人工物は、完全無欠でないがゆえに、それを扱うのが人間であるがゆえに、常に細心の注意を払う必要がある。しかし、それを考慮したとしても、無思想は危険だ。自分というものが無いと周りに流されやすくなる。これが国家レベルになると、国ごとあらぬ方向にいってしまう危険があるのだ。日本は、そもそも八百万の神々で、違う宗教や文化が入ってきてもそれを否定することなく、それまでの宗教や文化と共存してきた国だ。しかし、戦前戦後の一時期、画一的な価値観が社会を覆った。どちらが本来の日本なのだろうか。これは、2面性があるというよりも、無思想ゆえにそのまま受け入れてきた結果と言えるのではないか。社会の多数派もしくは時の権力者が、右といえば右になびき左といえば左になびくといった具合に、自分が無いからどのようにもなれたというのが真相ではないだろうか。そうでなければ、鬼畜米英からギブミーチョコレートまでの変わり身の早さの説明が付かない。もしそうなら、今後も国を挙げて極端な方向に転がっていく危険があることになる。それを防ぐには、もっと個が個を確立させて軸となる自分の意見を持つことだ。その上で、ヘーゲルの弁証法のように、異なる他者の意見も尊重し、お互いの意見をぶつけ合いながら、よりいい方向に向かっていくことができればと思う。しかし、今の日本では、普通はこうだとか常識的にはこうだといった認識が個人の価値観になっていきやすい。この普通とか常識といった価値観は、その時の社会での多数派の価値観に過ぎず、そんなものは、同じ状態が一定期間続くとそれが当たり前の世界になるというだけであって、それが絶対正しいとか不変の真理とかいう類のものではない。その上に、それぞれの自分にとっての普通、正義が乗っかって来て、それがあたかも普遍的な正義であるかのように振舞っている訳だ。西欧は一神教なので、自分の信じる宗教が正しいと思っている。ということは、他の宗教は間違っていることになるので認められないが、個人主義なので他者の思想価値観は尊重する社会だ。このように、共生といっても全てを容認するということではなく、自己主張する分、他者の主張も尊重し、その上で自分が納得できる方向に進んでいくということだろう。日本は本来、八百万の神々で多様な価値観に対して寛容な国民だったが、昨今では、今の時代の普通から逸脱した者に対して激しい批判が浴びせられる不寛容な社会になってしまった。このままでは、自分と違う価値観を認めない対立の社会になってしまうだろう。そうではなく、自己主張しながらも他者の価値観も尊重する共生の社会を目指すべきではないだろうか。
どの社会で暮らすのが幸せか
他者との関わりなくして、自分一人で幸福になることは不可能といえます。では、いわゆる西洋的な個人主義と、東洋的な集団主義の、どちらの社会の方が幸福なのだろうか。よく、ジョークで言われるものに、定員オーバーの救命ボートから降りてもらうのにどう言えばいいのかで、アメリカ人には「ヒーローになれますよ」と言い、日本人には「みんな飛び込んでいますよ」と言えばいいというのがありますが、これは国民性を端的に表しています。つまり、アメリカ的個人主義では、基本、自分勝手な人が多い中で、自分の意思で自己犠牲の選択をして他者を助けることに高い尊敬の念を抱いていますが、これまでの日本的集団主義では、横並び意識が強く、個人の意思よりも集団の意向を読み取り、それに合わせることを優先させます。バカなことをやってでも他人との違いを示そうとするアメリカ人に対して、突出して一人浮いた存在になるのを嫌う日本人は、そうした行為をやりたがりません。そうした特性の違いから、基本的にアメリカでは起業が活発で、個人の独創的な発明や発見を軸にして国力を伸ばし、日本では、個人というより企業という組織力で、既存のものに改良を繰り返して高品質で高付加価値の商品を生み出すことで国力を伸ばしてきました。問題は、そうした日本的なやり方を続けていていいのかということです。集団の中の一個人ではなく、自立した個人が集まって集団を形成しているというのでなければ、創造的な仕事は出来ないでしょう。資源の無い日本は、これからも工業技術で生きていくしかないことを考えると、アメリカの二番煎じでは到底やっていけない。となれば、個人の力をもっと伸ばす必要があります。周りが協調性を強いるあまり、個人の自由な才能が小さくまとまっている観があります。そんな土壌からは、日本の未来を切り開く創造的且つ革新的な人材は育ってこないでしょう。もちろん、現在の日本において個人主義化が進んでいるという見方もあるので期待したいですが、それが、社会から距離を置く自分勝手な若者が増えてきたという意味なら、それは孤独主義や利己主義と呼べるものであって、個人主義とは似て非なるものなので好ましいとは言えないでしょう。
さて、幸福には、本能が求めるものを邪魔されずに満たせるという部分も必要なので、個人と社会の関係性は重要な要素となります。では、「利己的な個人主義」「利他的な個人主義」「利己的な集団主義」「利他的な集団主義」の4つのうち、どれが個人にとって理想的な社会なのかを考察してみたい。人は本来、利己的で個人の自由な発露を発揮することを求めながら、一方で、利他的で自分を多少犠牲にしても仲間を大切にする部分も兼ね備えています。ゆえに、理想的な社会というのは、その両方を満たせるものということになります。この観点で見ていきますと、利己的な個人主義は、集団の分かち合いに欠けるので理想とはいえません。利己的な集団主義は、一見、個人の自由と仲間を助け合うということで理想的に見えますが、集団主義が入っている時点で個人の自由がある程度制約されるので、やはり理想的とは言えません。利他的な集団主義は、仲間を大切にするところはいいのですが、本来持っている利己的な部分を押し殺す面は否定できないので、理想的とは言えません。となると、残りは利他的な個人主義ですが、これは個人の自由な発露と仲間を思うという本能の求めるものをクリアしているので理想的な社会といえます。国でいえば、イギリスあたりがこれに当てはまると思われます。
初期の人類は弱い存在で、肉食獣の餌になっていましたが、道具を駆使しながら集団を形成し、互いに助け合うことで生き残り、ついには地球の覇者となることができました。そうした長い集団生活の中で、仲間を大切にするDNAが培われてきました。現在のアジア的な集団主義は、この流れの延長線上にあるといえます。現代の西洋的な個人主義は、近世の宗教革命や啓蒙思想、市民革命の譜系から生まれてきた比較的新しい概念です。アジアの集団主義と西欧の個人主義を比べて、どちらが理想的かといえば、先述のように、私は個人主義、就中、利他的な個人主義の方を選びたい。もし、本能に無いことなら、普遍的な浸透は望めませんが、利他的な部分は、長年の集団生活の中で培われた仲間を大切にする本能によって担保され、個人主義は、元々動物に備わっている自由な選択を求める本能に担保されているので普遍性があります。自由な個人が、利他的に社会と関わることによって、個人と社会の理想的な関係を築くことができます。
予め持って生まれた遺伝子や育った環境という、自分ではほとんどコントロール出来ない要因で、人生の主要な部分が形成されていきます。そこに、自分の意思と努力といった選択できる要因がプラスされて、人生が紡がれていきます。東洋は、自然災害を含む自分ではどうにもならないことを、「運命」として諦め気味に受け入れる素地がありますが、西洋では、自然も含めて自らの意思でねじ伏せようとする傾向が強い。法律を見ても、故意か不注意かで量刑がまるで異なるほど、個人の意思がどこにあるのかを重視しています。利己も利他も遺伝子に組み込まれてはいますが、利己の欲求の方が強いので、利他の実践をしようとすれば、それなりの意思というものが必要になります。つまり、利己心を凌駕できるほどの思想哲学を、個々人が自分のものとしなければ、利他的な個人主義を実現することは難しいということです。もし、アジアの人々が、この利他的な個人主義を標榜するなら、まずは、各人が軸となる判断基準を持つことが必要になります。それなくして、自由だけが一人歩きをすると、個人も社会も決して幸せにはなれないでしょう。
自由って何?
歴史学者のアーノルド・J・トインビーは、「文明は、非常に困難な一連の課題に対応して、創造的な少数派が社会全体の方向性を変えるような解決策を考案することで生まれた。」とし、「人間が文明を獲得するのは、生物学的に優れた能力や地理的環境の結果ではなく、これまでにない努力をするように彼を奮い立たせる特別な困難な状況における挑戦への応戦としてである。」と言っている。つまり、人類の歴史は「挑戦と応戦」によって紡がれてきたと。それを闘争の歴史という人もいるだろう。ただ、そんな表舞台の栄枯盛衰の影には、人知れず苦汁をなめてきた個々の庶民の人生があった。そういう意味では、人類の歴史は、長らく「支配するものと支配されるものとの間で紡がれてきた」という見方もできる。封建社会や絶対王政など、一部の支配者階級が領民から搾取する構図だ。もちろん、領民にそれを拒否する自由はない。そんな時代が、つい200年程前まで続いていたのだ。それが、西欧近世の宗教革命や啓蒙思想等によって「自由」という概念が生まれ、市民革命を経て実際に自由を獲得してきた。ただ、同時期に起こった産業革命を経て、資本主義が台頭してくると、資本家と労働者の間で新たな搾取が生じてきた。それを是正する為に、マルクスレーニン主義なるものが登場してきて、ソ連等でその途方もない社会実験が行われることになった。それは東西冷戦という形で、アメリカを中心とする資本主義・自由主義陣営とソ連を中心とする共産主義・社会主義陣営との間で争うことになったが、結局、資本主義の方がまだましだったということで一応の決着がついた。では、現代の資本主義&民主主義社会に生きる私たちは、自由になったのだろうか。確かに法的には自由が保障されているが、本当に政治的、経済的、精神的に自由かというと、そうでもないように思える。人は社会的動物であって、一人では生きていけない存在なので、その社会から有形無形の干渉を受けることになり、完全な自由というものは粗無いといっていい。そうなると、自由って何だろう?という疑問が湧く。
私たちは一般的に、誰にも邪魔されずに欲望の赴くまま行動出来ることを「自由」といっている。漫画、花の慶次で、松田慎之助の「慶次どのはいいなあ。好きなときに寝、好きなときに起き、好きなことだけをして死ぬんだ。」という言葉に対して、前田慶次は「そんなに自由に生きたかったら、乞食にでもなるさ。だが、その自由も、のたれ死にの自由と背中あわせだがな。」と返している。他にも「いやいや傾奇者は、どこでのたれ死んでも後悔せぬもの。それゆえの自由でござれば、命狙われるも一興でござる。」とある。つまり、この場合の自由というのは、社会のシステムから外れても、一人で生きていけるだけの実力があれば、誰に気兼ねすることなく好きに出来るということだ。それは、他者から干渉されない代わりに、他者からの庇護も受けないことを意味する。自分で今日食べるものを用意できなければ餓死することもあるが、それでもいい覚悟があるものだけが、欲に任せて好きに生きていけるということだ。しかし、カントに言わせれば、そんな理性のコントロールが効いていない野放図な状態というのは“不自由”だ、というのだ。これまでは、欲望に任せて生きようと思っても、それを抑止する社会的な圧力があったのである意味不自由だったが、それが弱まった昨今においては自由度が増してきた。つまり、自分のやりたいように生きられる社会にはなってきた。しかしそれは、カント的には不自由ということになる。人の行動は、無意識の内にその多くが欲望によって突き動かされている。もちろん、理性による抑制もあるので、犯罪に至るようなことは稀だが、そこまでいかなくても軽微なモラル違反は日常的に起きている。欲望や欲求は、生きていく上でなくてはならないものだが、その度が過ぎると自分のみならず周囲にも迷惑をかけることになる。それが依存症だ。アルコール依存症やギャンブル依存症といったものは、時に自分の体や生活を破壊してしまう怖い病気だ。理性のコントロールが効かないから、外部による治療が必要になる。なので、自由といっても欲望の赴くままという訳にはいかないのだ。
これからは益々、自由度が増していく分、自己責任の社会になっていく。自由といえば一見楽しそうだが、それと引き換えに、その結果責任を全て自分で引き受けることになる。それに耐えきれず、自由を放棄する人も出てくるだろう。選択を他者に委ねて責任転嫁できれば、その方が楽だからだ。これまでなら、社会が引いたレールのようなものがあって、個人はごちゃごちゃ考えなくてもそのレールに乗っかるだけで良かった。しかし、昨今においては価値観が多様化して、社会がそのようなステレオタイプの価値観を提供しなくなり、個人は多くの選択肢の中から、自分の責任で、自分の生き方を模索し、自分の人生の流れを自分で作らなければならなくなった。ところが、自由に選んでいいよと言われてハタと困った。自分の中に、軸となる判断基準となるものが何も無かったからだ。自分のことは、自分で守らなくてはならない。しかし、理性のコントロールには限界があり、無意識の領域による暴走は、誰にでも起こる危険がある。ゆえに、ただ自分の心に従うのではなく、その上位に、自分が従うところの規範を持っておくことが大事になってくる。それによって、カントが言うところの自由を手に入れることが出来る。
ミルは「自由論」で「自由の名に唯一ふさわしい自由とは、他者の自由を奪ったり、自由を得ようとする他者の努力を妨げたりせずに、自分なりの方法で自らの利益を追求する自由のことだ。…人間は、他者に善だと思われる生活をすることを互いに強制するよりも、自分にとって善だと思われる生活を互いに許し合うことで、より大きなものを得るのだ。」と言っている。つまり、人間は、他人に危害を及ぼさないかぎり、自分の望むいかなる行動をしようとも自由であるべきだ、と。人類は本質的にその自由を求め、多くの血を流し、そして、その権利を獲得していった。
しかし、歴史をみれば、折角自由を手に入れたはずのドイツ国民(当時最も民主的と言われたワイマール憲法を持っていた)が、ナチスの支配下に落ち、又、東西ドイツの統一で自由を得たはずの旧東ドイツ市民が、東ドイツ時代に郷愁を抱く(そこに戻りたい訳ではない)のはどうしたことなのか。そうしたことについてフロムは、人間は自由になることで孤独感や無力感を抱えてしまい、結果として逆に自由から逃避してしまう傾向を持っていて、それは「権威主義への逃避」「破壊主義への逃避」「機械的画一性への逃避」といった形となって表れるとしている。「権威主義への逃避」とは、他人を自分の権威の支配下に置くか、若しくは、他人の権威に自分の自由を託すことによって、身の安全を求める心理で、「破壊主義への逃避」とは、他者や自分自身を攻撃することによって不安から逃れようとする心理、「機械的画一性への逃避」とは、周囲と同調することで、自己責任から逃れようとする心理だ。ロシアや中国で、政治的な自由がなくても、国民の反発がそれほど起きないのは、こうした事情が推察される。
一方バーリンは、自由には二つの側面があると説明している。一つ目は「消極的自由」(誰にも邪魔されていない状態)人間をそれまで抑えつけてきた政治的、経済的、精神的束縛からの自由のこと。二つ目は「積極的自由」(欲望に左右されず、自分で自分をコントロールできている状態。自分で定め、選択した規律に従っている状態。)自分のあるべき姿を思い描き、その実現の為に行動できていること。カントの自由はこれにあたる。バーリンは、民主主義において多数者が積極的自由に基づいて専制的になり、結果として消極的自由を侵害する危険性を危惧しており、消極的自由を権利として保障する意義を主張している。又、「自由に関しては、消極的自由で満足すべきだ、強制の不在という意味での消極的自由こそがよい。」とも言って、消極的自由の方を推奨している。確かに、積極的自由が極まれば独善的正義や政治的信条を振りかざして、他者にもそれに賛同するよう強要し、場合によっては反対するものを攻撃するようになるかもしれない。そうなれば、消極的自由の方が侵害される。考えてもみれば、確かに民主国家に所属していても、政治的な主導権は多数派が握っているし、その他、経済的精神的自由といっても、経済的弱者は自由にほしいものを買える訳ではない。だとしたら、最低限、消極的自由を確保しておくことは必須の課題になるかもしれない。この二つの側面に関しては、先にフロムも同様の分類をしていて、積極的な自由を追い求めることで、人は自発的に行動し、自身の尊厳を守ることができる。とした上で、フロムは積極的自由の方を推奨している。これについては私も、積極的自由の方を推したいと考えている。それは、積極的自由による消極的自由の侵害の恐れよりも、消極的自由のみによる「いつか来た道」の方を恐れるからだ。そのメカニズムはフロムによって解明されている通りだ。個の確立したものが集まって社会を構成していかないと、結局、支配したい人たちの思惑通りになってしまう。人間は、自然人のままでは弱い存在でしかないということを忘れてはいけない。歴史がそれを雄弁に物語っている。
カギを握るのは「悟性」
テレビドラマの「御上先生」を面白く見させてもらった。そこでは、文科省と私立高校を舞台にして様々な問題提起をしているが、その中で、気になったテーマを2つ取り上げたい。それは「自分の頭で考える事」と「社会的弱者に寄り添う事」だ。一つ目の「自分の頭で考える事」に関しては、作中、御上孝は繰り返し「考えて」と言って、生徒に考える事を促している。これは、国の教育方針として、単なる知識の詰め込みではなく、考える力を伸ばす方向にシフトしていることを踏まえてのことだと思われる。二つ目の「社会的弱者に寄り添う事」に関しては、作中、御上孝は生徒に、「エリートは神に選ばれた人だと。なぜ選ばれるか。それは普通の人間なら負けてしまうような欲やエゴに打ち勝てる人だから。自分の利益のためではなく、他者や物事のために尽くせる人だから。僕はそこに付け加えたい。真のエリートが寄り添うべき他者とは、つまり弱者のことだ。」と言い、又最後に、「そして君たちが、苦しみの中選び取る答えは、きっと弱者に寄り添うものになる。」と言っている。これは、国の教育方針として、人間性を育むことの重要性が指摘されていることを踏まえてのことだと思われるが、それ以上に、恐らくこれがこのドラマの言いたい事なのだろう。
ちなみに、現在の日本の教育方針(平成29・30・31年改訂学習指導要領)は、育成すべき資質・能力について、次の三つの柱を掲げている。
1)「何を知っているか、何ができるか(個別の知識・技能)」
2)「知っていること・できることをどう使うか(思考力・判断力・表現力等)」
3)「どのように社会・世界と関わり、よりよい人生を送るか(学びに向かう力、人間性等)」
何が言いたいかというと、国の指針にも掲げている通り、これからのAI社会を生き抜いていくには、「思考力」と「人間性」の両輪が大事になってくるということだ。どんなに頭が良くても、人として終わっていれば社会の中で信頼されないし、どんなに人が良くても、考える力が弱ければ世の中を渡っていくのに苦労する。ゆえに、教育においては、思考力と人間性の両方を育成することが求められている。思考力でいうと、これまでの高度経済成長時代は、量産型の製造業が主体だったので、求められる人材は、協調性があって与えられた仕事をそつなくこなせる実務者タイプであり、学校での教育もそのような人材が育つようなカリキュラムになっていた。しかしこれからは、多くの仕事がAIや機械に代替えされていくので、求められるのは、情報を取り込んで自分なりに咀嚼し、自分の知識と体験も織り込んで新たな価値を創造できるクリエイティブタイプで、自分の頭で考え自ら仕事を創り出せる人材ということになる。又、人間性でいうと、中学高校の6年間を受験勉強に費やし、その結果難関大学に入れても、それで幸福な人生を送れるかは別問題だということだ。持って生まれた資質(理解力には生得的な得手不得手がある)を無視して、高い目標設定をして無理を重ねて、例えば医者になっても、その人の本来の能力に合致していなければ患者さんが不利益を被ることになる。そうでなくても、勉強ばかりしていて対人能力が欠落すると、東大出ても苦労することになる。どんなに勉強が出来て一流企業に勤めたとしても、人格に問題があると仕事の上でも私生活の上でも支障がでてくるからだ。会社の人間関係や家族間でぎくしゃくしてくるのだ。いやそもそも、そんなことでは面接で弾かれるだろう。ゆえに、人の上に立つ人間であればあるほど、人間性が求められることになる。
その人間性は生得的な要素が強く、思考力は習得的な要素が強い。そうすると、人間性は感性の領域であり、思考力は理性の領域ということになる。つまり、感性と理性の関係性を探ることが即ち、人間性と思考力の関わりを理解することに繋がる。人間の認識は、カントによると「感性」「悟性」「理性」によって行われるとされる。
「感性」 現象即ち五感から入ってきた情報を直観的に時間と空間という形式によって捉える。
「悟性」 それを概念に従って整理し、理解する。
「理性」 それに基づき思考し、推理する。
AI時代に必要なクリエイティブな「発想」や「着想」は、理性によって行われるが、それはその前の感性・悟性によって概念を理解すること抜きには語れない。感性・悟性は誰にでも備わっている生得的なものなので、その能力を十分に発揮できる環境づくりが重要になる。時に、理性による干渉によって感性・悟性の働きが阻害されることもあるので注意が必要だ。例えば、寝ている時に見る夢は、突拍子もない場面、ストーリーを創り出す。ただ、微妙に経験してきたことを織り交ぜているので、変だと思いながらも現実味を持って信じてしまう。ともかく、そこに創造的な展開が繰り広げられていることに変わりはない。言わば、誰でも破天荒な天才的脚本を書ける能力があるのだ。その脚本の元ネタは、起きている時に心の奥で感じている不安であることが多いので、目が覚めて夢だったことに気づくと大抵安堵する。同時に、物知り顔の理性も目覚める。途端に凡庸な自分に戻って、あの夢の中の突飛な創造力は出てこなくなる。ということは、起きている時は理性に邪魔されて、クリエイティブな感性を発揮できないようにされているのか。一流のクリエイターとは、その理性に邪魔されることなく創造力を発揮できる人のことをいうのだろうか。ことわざで「十で神童 十五で才子 二十過ぎれば只の人」というのがあるが、そう言われるのは、恐らく、子供ゆえに邪念無く感性を発揮できていたものが、長じるに従って雑念が入った理性の介入によって、素直な感性の働きが阻害されるからかもしれない。では、人の感性は、常に理性のコントロール下にあるのかといえば、そういうことでもない。理性が出来るのは精々、感性に茶々を入れる程度で、ほとんど制御なんてできていない。むしろ、理性的に考えればダメと分かっていることを、ついついやってしまうのが人間というものだ。だから、依存症も犯罪もなくならない。つまり、理性の介入によってクリエイティブな感性を発揮できないことがあるかもしれないが、それよりも、人間には理屈で割り切れない「深淵」があって、それは理性で制御できるような代物ではないというのが本当の所かもしれない。ユーゴーがレ・ミゼラブルで描きたかったのも、そのあたりにあるように思われる。ジャン・ヴァルジャンはその深淵に落ちてしまったが、ミリエル司教との銀の燭台のエピソード等を通して、そこには悪意だけでなく、誰もが持つ良心もあって、それを引き出す戦いが人生なのだと、言いたかったのではないだろうか。そういう意味では、ジャン・ヴァルジャンは幸福な人生ではなかったが、少なくともその戦いには負けていなかったということになる。
ともかく、物事の概念を理解出来るのが悟性だとしたら、AI時代において最も必要な能力ということになるかもしれない。というのも、発想や着想というものは、その概念を理解出来ていないとどうにもならないからだ。今の、一を聞いて十を知るどころか、十を聞いても一も理解出来ない状態では、とうていやっていけない。悟性の能力を十分発揮できることが大事で、その上で、単に経験認識するだけでなく、予測し推察する能力が必須となる。では、悟性を磨くにはどうしたらいいのか。生得的といっても何もしなければ干乾びていくだけだ。それには、徹底して読書と体験をすることだ。読書は、文章の行間から作者の言わんとするところを読み取る、すこぶる「察する能力」がいる作業で、体験はその感性を研ぎ澄ますのに欠かせない経験になる。しかしながら、今の現代人にはそれらが圧倒的に不足しているので、教育方針に掲げて取り組んでいったとしても、一朝一夕には成果を期待できないのではないか。
こうして見てくると、人間性と思考力を磨くには、感性と理性、就中その間を取り持つ悟性の役割が大事になってくることが分かる。これはある意味、大自然と都会の組み合わせのようなものであって、自分の持っている能力を引き出すようなアプローチが必要になってくるが、今の教育現場は果たしてそれが出来る環境になっているのだろうか。もしなっているなら、不登校の問題なんて起きていないと思うのだが。
「欲求」か「理想」か
地球が生物にとって最適な環境になったのは、誰か(神)の意志による必然だったのか(その場合は1分の1の確率)、それとも、単なる偶然だったのか(その場合は限りなく0に近い確率)。それは分からないが、この宇宙には、本来あるべき姿に回帰していく性質があるように思える。その姿とは、「万物は流転する」(ヘラクレイトス)ということだ。それでいくと宇宙は、静的なものではなく、カオス(混沌)からコスモス(秩序)へと移行していき、そして又、カオスへ戻っていくという無限ループを繰り返している動的なものとして捉えることができる。人類の歴史を見ても、同様に乱世と治世を繰り返しながら今日に至っている。もしそれが自然の摂理なら、個々の人間にも本来あるべき姿に収束していこうとする自動システムのようなものが働いていてもおかしくない。では、そのまま自然の流れに任せたら、自分にとっての最適解に至ることが出来るのだろうか。確かに、紆余曲折があっても結局、「収まるところにおさまった」「なるようにしかならない」(日本人の底流にはこの手の運命を受け入れる諦観が流れているように思える)ということは多々あることだし、変にこねくり回してあらぬ方向に行ってしまったということもあるので、自動システム(一歩間違うと欲望の赴くままということになるが)というものがあるなら、それに委ねるのもアリかもしれない。ただ、流れに身を任せても、それが最適解であるという保証は何処にもないし、単に社会の都合に合わせているだけなら、そんなものは自分の人生でもなんでもない。では、思想哲学でガチガチに固めて、理性と直感を総動員して強固な意志を持って選択していったほうが最適解に到達できるのだろうか。それについては、直観は今のことしか分からないし、理性は将来のことをあれこれ詮索できても、それが自分を幸せにするかは分からない。つまり、頭であれこれ考えても自分にとっての最適解(満足)を導き出せるかどうかは不透明だということだ。誰もが、先の事が分からない中で、幸福を求めて試行錯誤しながら暗中模索しているというのが現状ではないだろうか。
結局のところ、誰しも幸福になりたくて生きている。勉強するのも、働くのも全てその為だと言っても過言ではない。自分の自然な考えに任せたら、若しくは自分の心(欲望や利己心)に従ったほうが幸福に近づけるのか?それとも、思想哲学を保持してそれに基づいて生きたら、若しくは自分の自然な考えの上位に自分の意志で選択した人生哲学を置いたほうがより幸福になれるのか?つまり、「欲求」と「理想」のどちらに従えば幸福になることが出来るのだろうか?これについては、宮崎駿監督の「君たちはどう生きるか」というアニメ映画が示唆を与えてくれている。主人公である眞人(まひと)は、心の中では継母である夏子を素直に受け入れられずにいた。それもあって、ある日、夏子が森の中へ入っていく所を見ても特に止めなかった。しかし、吉野源三郎の小説「君たちはどう生きるか」を読んで意識変革が起こり、今度は失踪した夏子を探しに行こうとする。つまり、自分の感情に振り回されていたのが、読書体験を経て、相手の立場に立って物事を考えながら、自分が正しいと思える方向に向かって行動できるようになっていく。一方で、大伯父は本の読みすぎでおかしくなったと言われており、そのことは、理想だけではダメで、欲求もうまく取り入れていくことが大事になることを暗示しているように思える。それは、大伯父が下の世界で悪意を持つという石でできた積み木を積んで日々バランスをとり続けていることからも窺える。つまり、「欲求」と「理想」はどちらも大事だといっているのだ。これについて例えば仏教では、当初から煩悩(欲望)をどうするかということが、仏になるという理想を実現する上で避けて通れない課題となってきた。上座部仏教では、煩悩を滅することで目的を果たそうとし、後の大乗仏教では、煩悩を無くすのではなくそれを原動力にしながら目的を果たそうとしてきた。釈尊の真意は置いておいて、単純に煩悩が悪ということでもないことは確かだ。
人間には、本来の自分と理想の自分があり、自分らしくありのまま生きることも大事だが、同時に、為すべき事やあるべき姿といった理想を追うことも又、大事なことであったりする。それが、生きる意味に繋がってくるからだ。しかし、本来の自分と理想の自分が何なのかが分からなかったら、進むべき道を正しく選択出来ないし、それを実現させるなど夢のまた夢となる。なので、幸福=満足の人生を送りたいなら、まずは、本来の自分(自分の本質)を把握し、次に、理想の自分(自分の目指す方向性)を選択しておくことだ。そこを踏まえた上で人生の歩みを進めることが出来たら、その時を迎えた時に満足の人生だったと思えるのではないだろうか。